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歴史小話


長崎二十六聖人殉教の日



イエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えて五十年。1590年代の日本では、キリスト教に帰依したキリシタン大名やキリスト教徒たちによって寺社が攻撃され僧侶が迫害されたり、仏教を強く信仰する大名の領地ではキリスト教徒が迫害されたりする事件がたびたび起こっていました。

また、九州のキリシタン大名の中には南蛮の進んだ知識や技術を手に入れたいがために、自らキリスト教に改宗するのみでは飽き足らず、自国の領土を差し出す者、領民が宣教師や商人によって海外に売られるのを黙認する領主もおりました。図に乗った宣教師たちも長崎に要塞を築くべきだの、当時のスペイン王フェリペ2世に兵員を送るように要請すべきだ、などという進言をイエズス会本部に送っていました。

さらに、秀吉と天皇がいる都周辺での布教活動をイエズス会が自粛していることをいいことに振興のフランシスコ会やアウグスティノ会が活発な布教活動を行ったために、秀吉の目につきます。1596年、サン=フェリペ号事件により、日本のキリスト教に対する政策は大きく転換します。

1596年(慶長元年)7月、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指して太平洋に乗り出します。その中には船員以外の7人の司祭が乗っていました。サン=フェリペ号は台風に翻弄され、10月にようやく四国の土佐の浦戸湾の砂洲に漂着します。船員と司祭には長浜に宿が提供され、時の国主長宗我部元親は都に急使を走らせ、都からは奉行の増田長盛がやってきました。

秀吉は、「彼らには日本に害意があり、武力で制圧する時のことを考えて測量にきたに違いない」と考えました。ローマ教皇は日本への布教をイエズス会のみに定めており、イエズス会もフランシスコ会の行動を快く思っておらず、彼らが日本に害を及ぼすであろうことを秀吉にも吹き込んでいたのでしょう。

増田長盛は積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄しました。この行為は、海路諸法度(1592年に発布された、海上の航海についての国内法)にも抵触する行為でした。船員の生死にかかわらず、難破船の積み荷などは、船主に返すことが決められていたからです。宣教師ルイス・フロイスはこの事件の顛末を「漂着した船舶は、その土地の領主の所有に帰するという古来の習慣が日本にあった」と記しているとされます。とはいえ、秀吉の胸中にはフランシスコ会やその他キリスト教徒に対する大きな疑念が渦巻いていた、確信犯的な行為だったのでしょう。

一説ではこの時、水先案内人のフランシスコ・デ・オランディーアなる人物がスペインの広大な領土を示す世界地図を増田長盛に見せ、

「占領する土地に修道士を送り込み、領民をキリスト教に取り込んだのち、兵を派遣してその土地のキリスト教徒と結託してその国を占領する」

という趣旨のことを言ったため、秀吉の怒りを買い、そのことが長崎二十六聖人殉教のきっかけとなったとされます。しかし、その言葉は、イエズス会による「サン=フェリペ号事件」の事後調査の中で出てきた言葉で、日本側の記録にはそのような記述はなく、その真偽は定かではありません。

サン=フェリペ号事件直後の12月8日に再び禁止令を出した秀吉は、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じました。逮捕された中には、イエズス会の関係者も3人混じっていました。三成は、イエズス会の関係者を除外しようとしましたが、それは果たせませんでした。彼らは左の耳たぶを切り落とされたのち、市中引き回しにされ、大阪から長崎へと連行されました。

長崎では西坂の丘の上で処刑されることが決まり、そこまで連行されました。長崎の町には外出禁止令が出されましたが、市民約4000人が集まったとされます。一行は、槍で両脇を貫かれ殉教しました。1596年2月5日のことです。和暦では慶長元年12月19日。豊臣秀吉の手による唯一のキリスト教徒弾圧事件です。

彼らは日本初の殉教者として、1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって聖人の列に加えられました。処刑された場所には、日本二十六聖人記念館と記念碑が建てられています。