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歴史小話


ドイツ三十年戦争B〜デンマークの介入〜



戦争から始まった当初から国際戦争の様相を示していたドイツ三十年戦争ですが、戦況は皇帝軍――カトリック陣営――の圧勝に終わろうとしていました。そのため、各国は直接介入に乗り出します。まずはデンマーク。莫大な戦費の負担を強いられることになった皇帝軍にも、傭兵隊長・ヴァレンシュタインが登場してきます。


デンマークの参戦

「ボヘミア冬王」フリードリッヒ五世を追放したからといって、プロテスタントと神聖ローマ帝国皇帝の対立が軟化したわけではありませんでした。そのころ、フランスではリシリュー枢機卿が絶対的権勢を握り、いよいよ、ドイツ三十年戦争に介入する構えを見せていました。フランスの直接の軍事的介入はもう少し後にはなりますが、リシュリューの巧みな外交手腕が、この戦争をさらに泥沼化へと追いやって行きます。

皇帝軍の主力となり、ボヘミアの反乱を鎮めたバイエルン侯も、皇帝フェルディナンドの専横ぶりりや、スペインの介入などには納得できませんでした。そこで、フランスと密かに接近することを考えていました。このバイエルン侯は、かつて、選帝侯位を皇帝の独断によって与えられた経緯がありました。その問題は未だに解決はしていませんでした。


フランスは、オランダ、イギリス、デンマーク、スウェーデンといった国々と1624年の6月から7月にかけて条約を締結します。そのことで北ドイツのプロテスタント諸侯が勢いづけば、再び、選帝侯委譲の問題が再燃しかねません。バイエルン侯は、フランスへの接近を諦めて、皇帝の側に立ち戦うより他に道はありませんでした。


その年の終わり、フランス、サヴォイ、ヴェネツィアの後押しを受けたスイスの一部プロテスタントが蜂起し、ヴァルテッリーナ谷を閉鎖します。スペインの陸路の要所であり、このことで、スペインの神聖ローマ帝国への軍事介入は困難になります。


1625年5月に、デンマーク王クリスチャン4世が、帝国の10の行政区域の1つである下ザクセンの長に収まります。区長には様々な様々な特権が用意されていました。デンマーク王は、帝国内の、ホルンシュタイン侯領も領しており、帝国諸侯の一人でもありました。


デンマーク王は、ハルバーシュタットの司教に、自分の皇子を充てようと、皇帝フェルナンド2世に迫りますが、皇帝は宣戦布告でもってその要求に応えます。フランスはユグノーの反乱が相次ぎ、リシュリューはスペイン・オーストリアのハプスブルグ家はイギリス、スウェーデン、デンマークの各国を当たらせようと画策しますが、デンマーク王クリスチャン4世と、スウェーデン王グスタヴ・アドルフの対立のため、デンマークの単独参戦となったのでした。


冷たい春

デンマーク王に味方する軍の中には、あのマンスフェルトの軍や、クリスチャン・ブラウンシュヴァイクの軍がありました。両軍はイギリスに募兵のための資金支援を受けていました。イギリスもまた、ハプスブルグ家の勢力拡大を危険視していたことになります。さらに、ジーベンビュルゲンのカボールがハンハプスブルグの陣営に加わり、後方かく乱のためにシュレージェンに侵攻してきます。


1625年は春も冷えこみ、6月に雪が降る冷夏となりました。農作物の打撃は酷く、各軍が糧秣にも事欠き、略奪を繰り返し、とても戦闘にはなりませんでした。


皇帝軍将軍のティリーは主君であるバイエルン侯に戦力の増強を訴えます。両者に戦闘を行う力がない今こそ好機と踏んだからです。


しかし、バイエルン侯にも、皇帝フェルディナンド2世にも、そのような金はありません。スペインからも、水陸の要所を押さえられており、とても金は出せません。教皇にも支援を求めますがフランスびいきの教皇はすげなくそれを断ります。つまり、どの袖を振っても兵力増強のための金は出てきませんでした。それどころか、財務官は更なる出費を抑えるために、軍備の削減を要求してくる有様です。その窮地を救った人物こそが、歴史上最大の傭兵隊長・ヴァレンシュタインでした。


傭兵隊長 ヴァレンシュタイン

フェルディナンド2世は、1636年までに、新たに200もの貴族家を作りました。皇帝家の莫大な負債の一部を肩代わりさせることが目的でしたが、彼らの祖先は様々でした。こういった家柄にとらわれない新たな貴族たちが、後に優秀な官僚機構を築き近代国家を整備するための原動力になるのですが、それは後の時代の話です。


そういった新世代の貴族と、皇帝とは利害で結びついており、皇帝の忠実な配下とはなりえませんでした。それどころか、時として牙をむくことさえありました。ヴァレンシュタインもまた、皇帝を振り回し続ける存在になったのでした。 


元はボヘミアの小貴族だったヴァレンシュタインは、イタリア遊学中に、下克上によって大きな権力を握ったイタリアの傭兵隊長に強くあこがれ、軍歴を重ね、蓄財に励みながら密かにチャンスをうかがっていました。ボヘミア反乱が起こると、兵を募集し、フェルディナンド2世に引き渡しました。1623年にフリーラント侯に任じられました。さらに、ウィーンの有力者の娘と結婚し、国家の中枢と結びつきます。


それは、普通の傭兵隊長とは異なっていました。戦争から戦争へ、契約期間の間だけ主のために戦い、固定した主人を持たない傭兵隊長とは違い、権力と結びつき貴族軍人の様相を見せていました。その考え方は、後の貴族将校のそれと似ていましたが、神聖ローマ帝国の国家基盤は常備軍を整備できるほどにはなっていませんでした。


ヴァレンシュタインは、占領した土地に軍税の網をかけて、領民たちから搾り取ったのです。マンスフェルトは、軍を維持するために兵に略奪をさせていましたが、それをはるかに徹底して、組織的に、合法的に行ったのでした。その結果、ヴァレンシュタインの兵力はバイエルン侯の将・テイリーが率いる皇帝軍のそれを上回っていました。


ヴァレンシュタインのやり方は、この後、国家自身の手で行われるようになり、後に国家常備軍として常に大軍団を組織できる体制が整ったのです。それは、皮肉にも、ヴァレンシュタインの排斥という過程を経て完成に向かうのですが、それはまだまだ先の話です。


皇帝軍

1625年、ヴァレンシュタインは皇帝に5万の兵の提供を申し出ます。皇帝・フェルディナンド2世は、その申し出をうけましたが、5万では多すぎると2万を皇帝軍に編成し、ヴァレンシュタインを皇帝軍総司令官に任命しました。実際には、2万4千が募兵され、テイリー率いる旧教連合軍1万6千と合わせて4万の兵となりました。翌年にはその兵力は5万を超え、さらに翌年には10万にもなりました。


1626年に、封鎖されていたスペインとの要所ヴァルッテリーナが解放され、スペインからの支援が受けられるようになります。ハプスブルグ最大の生命線が再び開いたのでした。


デンマーク―下ザクセン戦争

1625年から始まった北ドイツを舞台にしたプロテスタント軍との戦いは、皇帝軍有利に進んでいました。デンマーク王・クリスチャン4世を中心に、マンフェルト、ブラインシュヴァイクの三軍は、主導権争いにより、分裂したまま戦争が始まりました。


ヴァレンシュタインの本陣を狙うマンスフェルトは、ジーベンビュルゲンのカボール軍と合流を狙います。クリスチャン・ブラインシュヴァイクの軍は、モーリッツ辺境伯を味方につけた後、テイリーの背後を狙います。デンマーク軍はヴェーゼル川沿いに正面対決を挑みます。しかし、結果だけを見れば、それらの目論見は、全て失敗に終わりました。


1626年1月に、ブラインシュヴァイク軍は攻撃を仕掛けますが、完全に失敗します。戦闘に破れ、さらには病魔に冒されたクリスチャン・ブラインシュヴァイクは、失意のまま6月にこの世を去ります。


マンスフェルトもまた4月にエルベ川のデッサウ橋に進軍し決戦に挑みます。歴戦の将であったマンスフェルトは、ヴァレンシュタインを過小評価していました。ヴァレンシュタインは、マンスフェルト軍を完膚なきまでに粉砕します。マンスフェルトはカボールを頼って再起を目指しますが、もはやカボールは自分の保身の事のみで精一杯でした。


同盟者から見捨てられたマンスフェルトは、ダルマチア海岸へと逃げる途中、サラエボの山中で死亡します。トルコか、ヴェネツィアの援助を得ようとしたという説がありますが、今となっては分からないものになりました。


ヴァレンシュタインの軍がマンスフェルトにかかっている間に、テイリーの軍はクリスチャン4世の軍と接触しようとしていました。クリスチャン4世はその知らせを受けると、急ぎブラウンシュヴァイクの基地へと戻ります。


しかし、逃れきれず8月27日に、壁によって囲まれた村落・ルッター付近で迎え撃ちます。森林や、凹凸の地形はクリスチャン4世に味方をしていました。20門の大砲を配備し、マスケット中も木々の間からその先端を除かせていました。しかし、テイリー軍の攻撃の前に、デンマーク軍は必死に戦いましたがついに及ばず、大砲を失い、絶望的な戦況となります。


クリスチャン4世はかろうじて脱出に成功しますが、兵の半分を失うことになってしまいました。もはや北の海岸部へと撤退するより他に選択肢はなくなっていました。


バルト海計画

「ルッターの戦い」によってデンマーク軍を完膚なきまでに叩きのめした皇帝軍は北ドイツの制圧を着々と進めます。プロテスタント陣営のスウェーデン王は、ポーランドに手を取られてデンマーク王を助けに来ることが出来ません。


1628年1月に、帝国副宰相の建白書を受け入れ、バルト海の安全を護るために戦艦の製造に着手しました。ヴァレンシュタインが集めた10万を超える皇帝軍を得て、フェルディナンド2世はいつになく交戦的になっていました。


しかも、3月には帝国を揺るがす大事件が起きます。フェルディナンド2世が反抗的であったメックレンブルグ大公の財産を取り上げ、それをヴァレンシュタインに称号やそれに付随する諸権利まで含めて与えたのです。一介の傭兵隊長が独立した君主になろうとは!しかもそれは、皇帝の独断をもって行われたのです。皇帝の独裁はここに極まったと帝国諸侯は嘆きます。 


とにかく、バルト海計画は着々と進んでいました。フェルディナント2世は、ハンザ同盟の都市・リューベックとハンブルクに協力を求めますが、両市はなかなか前向きな答えを提示しません。業を煮やした皇帝は、ヴァレンシュタインを差し向けます。1628年7月に、シュトラールズントに兵を進めます。


この都市は、ポンメルン海岸に位置し、街の前にはリューゲン島があり、港に対する自然の防波堤の形になっていました。シュトラールズントは一種の島になっており難攻不落でした。


シュトラールズントは、急いでスウェーデン王と条約を結び、30年間の保護協定を結びます。その代償として、スウェーデン王には、ドイツへの上陸地点、そして根拠地を提供することになったのです。皇帝軍はバルト海の鍵を握る港を手に入れるため、2度に渡る総攻撃を仕掛けますが失敗しました。


これは、皇帝側の敗北の前兆とPRされ、「鷲(ハプスブルグ家の紋章)は海を泳げないと揶揄されました。ヴァレンシュタインの軍事作戦は頓挫しましたが、すぐに汚名返上のチャンスは回ってきました。デンマーク王・クリスチャン4世がポンメルンの海岸に上陸したからです。


ヴォルガストの戦い

クリスチャン4世は、都市ヴォルガストを制圧し、メックレンブルクへ攻撃を仕掛けようと考えていました。ヴァレンシュタインにとっては、守りを固めている間は手の出しようもありませんでしたが、そこから引っ張り出すことが出来れば、確実に自分が勝つと思っていました。そして、それは1628年9月に現実のものとなりました。ヴォルガストの前面でデンマーク軍を完膚なきまでに叩き潰します。クリスチャン4世は船で逃れ、デンマークへ逃げ帰ります。翌年、「リューベックの和平」を結び、デンマークはドイツ介入を断念します。





【参考書籍】