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歴史小話


ドイツ三十年戦争C〜スウェーデンの介入〜



デンマークを退けた皇帝は、帝国の再カトリック化を目指して回復令を出しますが、これにはカトリック陣営・プロテスタント陣営関わらず、反対の声が上がるほど過激なものでした。諸侯の怒りの矛先はヴァレンシュタインに向けられ、ヴァレンシュタインは罷免されます。帝国に次に侵攻してきたのはドイツ三十年戦争最大の英雄グスタヴ・アドルフ王率いるスウェーデンでした。スウェーデン軍と皇帝軍はブライテンフェルトで激突します。


回復令

1629年3月。フェルディナント2世は回復令を発令します。それは、プロテスタントも、カトリックも驚愕する過激な内容でした。


その内容は帝国の再カトリック化であり、それはハプスブルグによる帝国の絶対的支配を目論むものでした。カルヴァン派は宗教和平の埒外に置き、プロテスタントに没収された修道院や教会領はカトリックに返還する。皇帝は教会領に関する従来の法的裁定を無効とし、新たな決定を下す権利を有する。教会領を掠め取ることで豊かになった諸侯は、一気に貧しくなってしまうことを意味していました。


バイエルン侯も回復令に慌てふためき、ルター派でありながら皇帝側についていたザクセン侯も、これは帝国法への重大な挑戦であると受け止めます。この回復令で締め出されたカルヴァン派は、デンマーク王の敗北で追いつめられていました。


ヴァレンシュタインの兵力は12万5千にもなり、正面をきって対抗できる諸侯はいませんでした。諸侯の恨みは、皇帝をここまで増長されたヴァレンシュタインに向けられます。しかし、そのヴァレンシュタインさえも、この宗教色の強すぎる回復令に反対します。


ヴァレンシュタインの望みは皇帝権力の強化により、内在するあらゆる存在を取り込むことでした。回復令は、最大のチャンスをみすみす逃しかねないものでした。ヴァレンシュタインの存在は、確実に帝国に大きな亀裂を入れていました。


ヴァレンシュタイン罷免

1627年冬。ミュールハウゼンで選帝侯会議が開かれました。ヴァレンシュタインの専横ぶりに辟易していた選帝侯は、ヴァレンシュタインの様々な帝国法違反を挙げました。過大な軍税の徴収や、その横領、軍による略奪行為などです。


さらに、翌年、フェルディナンド2世がメックレンブルク侯爵位を与えると、選帝侯はボヘミア王を除く(この時のボヘミア王は皇帝の嫡男)一同の署名を集め、ヴァレンシュタインの解任がない限り、皇帝の嫡男のローマ王の選出の保障はしないと宣告します。ローマ王は、いわば神聖ローマ帝国の皇太子のようなもので、いかにハプスブルグ家の嫡男といえども、選帝侯による選挙が必要でした。


ところで、選帝侯にもカトリックとプロテスタントがおり、今まさに帝国はその両者が争っている状態でしたが、それを一度に吹き飛ばしてしまうような出来事がありました。イタリアのマントヴァでの継承問題が、外国の介入を招き、最終的にローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝の対立にまで発展してしまったのです。


このことが、逆にカトリック勢力がプロテスタント陣営と手を組むことの心理的障害は一気になくなりました。帝国のために、一致団結することになったのです。三十年戦争は、宗教戦争から、帝国の覇権争いへと変質していました。


では、皇帝フェルディナンド2世はどのように、この事態に対処したのでしょう。選帝侯の中でバイエルン侯は、神聖ローマ帝国から、スペインの勢力を排除することを第一と考えていました。そのために、フランスの勢力とさえ手を結ぼうと考えます。スペインの対オランダ戦争はスペインを圧迫していました。スペインとしては、帝国にオランダに宣戦布告をしてもらいたいと思っていました。マントヴァの継承問題への介入と、スペイン支援は、フェルディナンド2世は譲ることの出来ない問題でした。


皇帝と選帝侯の対立は、激しくなります。ところが、ここでフェルディナンド2世は、なぜか嫡男のローマ王選出にこだわります。これまで、様々なごり押しを通してきたフェルディナンド2世が、絶対的切り札であるはずの皇帝軍総司令官ヴァレンシュタインとその配下、12万5千の兵を使わなかったのです。神聖ローマ帝国皇帝という冠を神聖なものとして、決して力ずくで奪うのではなく、帝国の法によって受けようとしたのです。


そこで、ヴァレンシュタインを切る決意を固めました。近頃では、皇帝に対してさえ不遜な態度を取り始めたヴァレンシュタインに、危険を感じていたこともありました。さらに、マントヴァへ3万の兵を送るように命じた皇帝に対し、ヴァレンシュタインは公然と拒否したのです。皇帝は、ヴァレンシュタインに権限を与えすぎたことを悟りました。


1630年8月。ヴァレンシュタインは解任されます。ヴァレンシュタインの兵は大幅に削減されてテイリー将軍の指揮下に入ります。しかし、同年11月の選帝侯会議では皇帝の嫡男のローマ王選出も、オランダへの宣戦布告もされませんでした。皇帝の敗北でした。


ヴァレンシュタインが消えたことで、再び、カトリックとプロテスタントの争いが再燃しした。そして、いよいよ、三十年戦争最大の英雄、北方の獅子・グスタヴ・アドルフが介入してきます。


スウェーデン王 グスタヴ・アドルフの参戦

1630年7月。スウェーデン軍、総勢1万3千がポンメルン侯国の海岸に上陸します。帝国がスウェーデンの権益を侵し、帝国はスウェーデンの対立国に支援足、スウェーデンの名誉を損ねたと、宣戦布告したのです。


帝国は、直ちに「根も葉もないことで、これは立派な侵略行為だ」とスウェーデンを非難。対決姿勢を強めます。グスタヴ・アドルフは、プロテスタントたちに、自らは解放者であると語ります。カトリックに弾圧されるプロテスタントを解放するために来たのだと、宗教的側面を強調します。


スウェーデンは人口100万ほどの農業国で資源にも乏しい小国でしたが、名君グスタヴ・アドルフの下、国力は充実していました。そして、その生命線は、バルト海にあります。バルト海で、皇帝が進めていた大規模な艦隊建造は、スウェーデンから見て容認できるものではありませんでした。


翌1631年1月、スウェーデンはフランスと「ベールヴァルデ条約」が結びます。その内容は戦費の一部をフランスが負担すること。ドイツ・カトリックの信仰の自由を認めること、フランスの盟友であるバイエルン侯を攻撃しないこと、両国が相手に図らずに単独講和を結ばないこと、などでした。


グスタヴ・アドルフは、「ベールヴァルデ条約」の内容を帝国中の諸侯に通告します。それは、「自らにつくか、帝国皇帝につくか、はっきりさせよ」という脅しでした。


プロテスタント諸侯であるザクセン、ブランデンブルグ両選帝侯は、グスタヴにはつかず、第三勢力の形成を目論みます。プロテスタント諸侯を集めた両選帝侯はアルニムという傭兵隊長を擁し、皇帝に迫ります。


「回復令を撤回すれば、我々は皇帝につく。それを認めなければ、これ以上の中立は保てませぬぞ!」


皇帝はそれをあっさりと拒否します。第三勢力の結束は怪しくなってきました。


マグデブルグの運命

グスタヴ・アドルフは快進撃を続けオーデル川に迫りました。しかし、ウィーンの皇帝政府の面々は高をくくっていました。グスタヴ・アドルフに味方する者は少なく、いずれ消えてしまうものだと思っていました。


しかし、エルベ川沿岸の有力都市マグデブルグを皇帝軍が陥落させたことで状況は一変しました。


富裕な土地の商業都市であり、ハンザ同盟に属していたこの都市は、皇帝軍、スウェーデン軍双方とも、のどから手が出るほどほしい獲物でした。


特にテイリー将軍率いる皇帝軍は悲惨な状況になっていました。皇帝軍はヴァレンシュタインが罷免された後、大幅に削減されていました。しかし、ヴァレンシュタインが去った後、彼らを食わせる方法が無くなっていました。近辺の味方の所領地はヴァレンシュタインのものでしたが、彼は、対価の払われた以外の食料を渡しませんでした。皇帝軍総司令官を罷免されたヴァレンシュタインにとって、皇帝軍を食わせる義理はなく、皇帝に食料を買う金がありません。


テイリー将軍は、マグデブルグの攻略にかけます。戦略的に重要な拠点だけに補給品が十分に用意されていると考えたのです。


同市を守るのはヘッセン出身のディートリヒ・フォン・ファルケンベルク。彼の頑迷すぎる抵抗が、悲劇を招きます。


プロテスタントたちからはグスタヴ・アドルフに、マグデブルグを救援するように望まれますが、それができない状況にありました。グスタヴ・アドルフはわずか150マイル(約240キロ)ほどしか離れていませんでしたが、ザクセン、ブランデンブルグ両選帝侯の行動はスウェーデン王の足を止めます。両選帝侯も、決してグスタヴ・アドルフによる侵略を望んでいたわけではなく、不用意にマグデブルグ救援に向かえば、彼らに背後を疲れる恐れがあり、また両選帝侯の協力なくして救援は難しかったのでした。


そのため、両選帝侯を中心とした第三勢力を切り崩し、スウェーデン陣営に引き入れるところから始めなければなりませんでした。


1631年5月20日の早朝。皇帝軍は総攻撃を仕掛けます。ファルケンベルクは徹底的に抵抗の後、戦死します。そして、皇帝軍がなだれ込んできます。彼らは飢えていました。飢えた兵士たちは規律を失い略奪者と化します。3万人の住民のうち、生き残ったのはわずか5千人ほどでした。そのほとんどが女性で性的陵辱の対象とされます。


凄惨な虐殺と略奪の最中、炎が市内の複数箇所から立ち上ります。激しい炎はあっという間に街を飲み込み、その後3日間に渡ってくすぶり続けました。 


ファルケンベルクの命による放火の可能性もありますが、理由はいずれにせよ皇帝軍は、あてにしていたあらゆるものを失ったのでした。


テイリー将軍の逡巡

マグデブルグの惨劇は、ヨーロッパを震撼させました。このことをカトリック陣営、プロテスタント陣営双方がプロパガンダを繰り広げましたが、直接的に手を下したのが皇帝軍であるという事実は消すことはできませんでした。70歳を超える老将は、世の批判を一心に浴びながら、次の戦いに備えます。しかし、状況は悪化こそすれ好転する要素はありませんでした。


プロテスタント陣営は皇帝に背を向け、スウェーデンに擦り寄ります。ザクセン、ブランデンブルグの両選帝侯も中立は無理と悟り、グスタヴ・アドルフと同盟を結びます。


そんな中、テイリー将軍の主人であるはずのバイエルン侯がフランスと接近します。フランスはバイエルン侯を選帝侯として認め、バイエルン侯はフランス同盟者の敵に一切の援助をしない。などが条件として交わされました。この行動は、誠実なテイリー将軍を大いに当惑させます。


フランスのリシリュー枢機卿はバイエルン侯を選帝侯として認めました。しかし、リシリュー枢機卿の同盟者であるグスタヴ・アドルフは、バイエルン侯によって追い落とされたかつてのプフャルツ選帝侯でありボヘミア冬王・フリードリッヒの復位を望んでいます。グスタヴ・アドルフの敵は皇帝軍であり、その指揮を執るのはバイエルン侯の配下のテイリー将軍で、その戦費の多くはバイエルン侯の金庫から出ていました。テイリー将軍は、自分の主人の同盟者と戦うことにためらいを覚えます。


1631年夏。皇帝軍の食糧事情はさらに厳しさを増していました。皇帝軍はその進路をザクセンへと向けます。ザクセン選帝侯は傭兵隊長アルニム率いるザクセン軍を、スウェーデン軍に合流させます。


9月。テイリー将軍はザクセンの中心地ライプツィヒを守る要塞プライセンブルクを占領しました。その北40キロの地点でザクセン軍とスウェーデン軍は合流し前進を始めました。


皇帝軍には、さまざまな状況が後退することを許しませんでした。ライプツィヒで篭城し、皇帝が増援としてよこすはずのアドリンガー将軍が到着するまで、時間稼ぎをすることを理想と考えました。


しかし、副官パッペンハイムが独断で発進してしまいました。彼は、勇猛果敢な熟練の指揮官でしたが、時として無謀な行動に走ることもありました。マグデブルグ攻略戦でも、20日早朝の攻撃命令はパッペンハイムが独断で行ったものでした。それは時として成功しましたが、今回の行動は最悪でした。テイリー将軍はそれを追い、野戦を行うより他に選択肢はなくなっていました。


ブライテンフェルトの会戦の戦端

1631年9月18日午前9時。ライプツィヒ北方4マイル(約6.4キロ)のブライテンフェルトで両軍は対峙します。投入された兵力は両軍合わせて8万。今ここに、ドイツ三十年史上最大の戦いの火蓋が切って落とされたのです。


皇帝軍は伝統的な陣を敷きます。歩兵を中心に騎兵隊を両翼に配置します。テイリー将軍は中央で指揮しパッペンハイムは左翼にありました。騎兵1万、歩兵3万です。


グスタヴ・アドルフもまた、兵を配置につけます。左翼には、ザクセン軍の騎兵が選帝侯自身とともに配置されました。中央にはザクセン歩兵隊。続いてスウェーデン軍の歩兵隊。右翼に、グスタヴ・アドルフとスウェーデン軍の歩兵隊、騎兵隊が配置されました。


兵を小さな方形陣に分け、各方形陣は戦闘ができる程度の間合いをとり、兵と兵の間には前後左右に動ける程度の空間が開いていました。それは、テイリー将軍の密集型の陣形とは異質なものでした。


さらに、方形陣の間にマスケット銃兵を5人一組で配置します。そのうち、最前列の2人に同時に射撃をさせ、背後のものはその間に射撃の準備をさせます。そして、射撃を終えた2人は背後に回り2人が射撃をする。この繰り返しでした。グスタヴ・アドルフに鍛えこまれたマスケット銃兵は、この射撃法を完璧にマスターしていました。射撃速度はテイリー軍の三倍になりました。しかも、グスタヴ・アドルフの陣は方向の転換を容易にいかな攻撃にも対処できるようになっていたため、皇帝軍には七時間の戦闘の間、銃声を聞き続けることになったのです。


さらに、兵士3人で運べる4ポンド砲を使用し、野戦の決定兵器として活用しました。千人に12門の砲が用意され、散弾や破裂弾が使用されていました。百戦錬磨のテイリー将軍といえども、見たことのない軍隊がそこにはいました。


ザクセン軍 総崩れ

両者が向き合い約半時間。太陽がスウェーデン軍を正面から照らすようになります。最初に動いたのはパッペンハイムの部隊でした。スウェーデン軍の射撃の外側を大きく迂回してスウェーデンの騎兵の背後に回りこみ、騎兵予備隊に突撃します。しかし、スウェーデンの騎兵は直ちに方向転換しパッペンハイムの部隊は、騎兵隊と予備隊の間に挟まれました。パッペンハイムは死に物狂いで戦い退きます。


テイリー将軍は、自軍の左翼が混乱し、スウェーデン軍が攻撃態勢に入った今こそがザクセン軍を攻撃する最大のチャンスと判断します。テイリー将軍と右翼の指揮官は、ザクセン軍の砲兵隊に攻撃を仕掛けます。ザクセン選帝侯の軍は、グスタヴ・アドルフのスウェーデン軍ほど実戦慣れしていませんでした。ザクセン軍の前線は、今まで経験したことのない圧力に動揺し浮き足立ちます。砲手たちが最初に逃げ出し、カノン砲は皇帝軍が捕獲します。


皇帝軍は騎兵の前面で包囲するように弧を描き、射撃を開始します。傭兵隊長アルニムは、部隊を再結集して体勢を立て直そうとしますが、ザクセン侯自身は、これ以上面倒をかけられないと戦線を離脱し、20キロ以上も離れたアイレンブルクまで逃げ出します。アルニムの努力もむなしくザクセンの将校もこれに倣います。さらに彼らは、もはやこれまでとばかりにスウェーデン軍の運搬車を遅い、運び去ってしまったのです。


これでザクセン軍は消えました。この行動によって、もはやグスタヴ・アドルフはザクセン選帝侯を信頼できる同盟者とはみなさないでしょう。そして、このことは、皇帝軍の攻撃の矛先の全てをスウェーデン軍のみで支えなければならなくなったことを意味していました。


勝利は目前かと思われましたが、スウェーデン軍は恐れも知らぬかのような戦いぶりで、皇帝軍の突破を許しません。立ち上る土煙の中、王は戦線を上から下へと駆けずり回り兵たちを叱咤激励し続けました。


皇帝軍敗走

いつの間にか、日が西へと傾いていました。スウェーデン軍の目に太陽の光は当たらなくなり、風向きが変わり土煙が皇帝軍兵士の顔に吹き付けました。それはグスタヴ・アドルフが何よりも待っていた瞬間でした。戦闘に加わらせなかった騎兵予備隊を投入し、陽動によって騎兵と歩兵に分断し、騎兵予備隊に皇帝軍の騎兵を攻撃させようとしました。この企ては成功します。ザクセン軍の砲を手に入れ、分断された皇帝軍に容赦なく放ちます。


皇帝軍の兵士たちは、ライプツィヒに蓄えた戦利品のことを考えていました。彼らの多くは金で雇われた傭兵で、形勢が不利となれば直ちに脱落していきます。スウェーデン軍はそれを追って殺します。テイリー将軍自身も、首と胸に重傷を負い、右手を失い、かろうじて逃げ延びます。


パッペンハイムが、軍を収集すべくのこっていました。土埃が、今度はパッペンハイムの味方をします。夕暮れの薄明かりにも助けられて、追っ手から逃れながら四個連隊を無事にライプツィヒに退却させます。しかし、彼も、ライプツィヒを防衛するのは無理と悟り、ハレのほうへと退却していきます。


皇帝軍のうち1万2千が戦死し、7千人が捕虜になりました。捕虜となった兵はスウェーデン軍に編入されました。


征服者の顔

ブライテンフェルトの会戦は、三十年戦争が始まってから13年。プロテスタント陣営にとって運命の転機となりました。プロテスタント陣営にとって初めての勝利でした。


グスタヴ・アドルフは1631年の冬には8万の兵力を要し、ウィーン進行も間近となっていました。ところが、ここでプロテスタント陣営は慌てます。スウェーデンのあまりの快進撃に皇帝との和睦を検討します。彼らは決して新たな征服による支配者を望んでいたわけではありませんし、このまま戦いを続けカトリックにより強固に団結されることを望んでいたわけでもありませんでした。この動きに、グスタヴ・アドルフは激怒します。


1632年2月。かつてのボヘミア冬王フリードリヒをプファルツ選帝侯に復帰させようとします。それは、スウェーデン王の家臣としてでした。フリードリヒはこれを断固拒否します。そこには神聖ローマ帝国を征服し、新たな支配者になろうとする、征服者の顔がありました。


このスウェーデンの快進撃を嫌っていたのは、フランスのリシリュー枢機卿でした。皇帝とグスタヴ・アドルフの共倒れこそが理想でした。バイエルン侯もまた、この征服者に脅威を感じていました。そこで、かつて自らが中心となって罷免させたヴァレンシュタインの再登板を皇帝に進言します。そうして、テイリー将軍をヴァレンシュタイン復帰までのつなぎとしてグスタヴ・アドルフに当たらせます。


1631年の冬から、ローマの教皇に支援の要請をしますが、教皇はこの戦争を宗教戦争とは認めず支援には応じません。ヴァレンシュタインにも、皇帝軍司令官への復帰を要請します。しかし、ヴァレンシュタインは皇帝の足元を見て、よい返事を返しません。最後は皇帝自ら筆を取りました。ヴァレンシュタインもこれ以上引っ張っては元も子もなくなると、復帰要請を受諾します。


テイリー将軍 死す

グスタヴ・アドルフはさらに南進し、バイエルンへと迫っていました。1632年4月にドナウ川支流レッヒ河でテイリー将軍はグスタヴ・アドルフと対峙します。自ら斥侯に出たスウェーデン王は、対岸にテイリー軍の歩哨の姿を認めます。歩哨は、王とは気づかず、「お前たちの王は、どこにいるのか?」と問い、王は、「お前たちが思うよりもずっと近くにいるぞ」と答えました。


夜になると、グスタヴ・アドルフは船橋を造らせ、翌朝、渡河を開始しました。300のフィンランド兵が砲列のための土塁を築きます。テイリー将軍も攻撃を仕掛けます。しかし、開戦早々、テイリー将軍は負傷し戦列を離れます。さらに、援軍のアイドリンガー将軍も倒れます。そのため、バイエルン侯も兵を引きます。


その数日後、テイリー将軍は逃げ込んだインゴールシュタットの要塞で命を落とします。白山の戦いから皇帝軍の指揮を執り続けた老将はこの世を去りました。


いよいよ次は、新たに皇帝軍総司令官に任ぜられたヴァレンシュタインと、グスタヴ・アドルフが雌雄を決する番です。そして、その時は、間近に迫っていました。





【参考書籍】