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歴史小話


バウンティ号の反乱



この事件は18世紀のイギリスの武装船バウンティで起きた艦長に対する反乱事件です。当時も大きな話題となり、その後多くの文学作品、映画などの題材となりました。当サイトでは1935年製作の映画『戦艦バウンティ号の叛乱』を紹介しています。

バウンティ号は、タヒチ島からパンノキ(クワ科の常緑高木)を西インド諸島に運ぶための任務のために貨物船を買い上げて臨時の軍艦とした小型のものでした。乗組員は艦長ウィリアム・ブライ以下、上級准士官3人 ・ 准士官11人 ・ 士官候補生6人 ・ 下士官14人 ・ 水兵11人の計46人。この中に士官はブライ艦長ただ一人であり、艦内の保安を担当し、立ち寄った先で敵対的な住民と遭遇した場合などから船を守るための海兵隊員も乗っていませんでした。ブライ艦長は、当時33歳で、ジェームズ・クック船長指揮下のレゾリューション号の航海長を務めたのをはじめとして、この海域に関して経験豊かな人物でしたが、艦長経験はこれが初めてでした。

1787年12月23日にイギリスのポーツマス港を出航、当初は南米ホーン岬を回って太平洋を航行する計画を立てていましたが、、天候不順の為に1カ月をかけた末にこれを断念し、喜望峰を周ってインド洋に出ることになりました。1788年10月26日にタヒチ島に到着しましたが、パンノキが運搬できるほど十分に熟するまでにさらに5ヵ月待たなければならなかった為に、1789年4月にようやくタヒチを出帆しました。

反乱の原因はよくわかっていません。映画では、乗員に厳しい体罰を加える悪辣な艦長として描かれることの多いブライ艦長ですが、実際には当時の船上勤務の平均的な待遇からみれば酷すぎるものではなかったとも伝えられます。楽園同然のタヒチの生活があまりに長く続いたために、不満が鬱積しやすい状況になっていたという指摘もあります。4月28日、反乱は航海士(上級准士官)のフレッチャー・クリスチャンの首謀で行われました。ブライ艦長は睡眠事件をより長くとるために2直ではなく3直に乗務員を分けて勤務に当たらせており、クリスチャンにはその中の1直を任せていましたが、クリスチャン指揮下の乗務員が夜間当直のときに火器をもって蜂起すると、ブライ艦長を脅して船室に閉じ込めました。

直接の反乱を起こしたのは12名でしたが、積極的にこれを制止しようとする動きはなく、無血のままに反乱は成功しました。反乱者たちは、ブライ艦長と、最後まで反乱に与しなかった18名をわずか23フィート(7m)の長さしかない艦載艇に乗せ、最も近い港に行き着くまでの2、3日分の食料と水、それに4本の斬込刀(カットラス)と六分儀と懐中時計だけを与えて海に流しました。艦載艇には艦長に忠実な乗員をすべて収容することができなかったために、反乱者たちは有用な技術を持っている者4名をバウンティ艦内に残すことになりました。この4名は、反乱者たちの目的地だったタヒチに着いた後で解放されました。

ブライ艦長らは、一旦立ち寄った島で好戦的な住民によって犠牲者を1名出しましたが、47日の航海を生き延び、3,618海里(6,701km)の航海を完遂し、ティモール島に到着しました。1790年3月に帰国したブライ艦長らの報告によってバウンティ号の反乱はイギリス政府の知るところとなり、1790年11月にパンドラ号がバウンティ号の捜索のためにタヒチへと向かいました。

翌年3月にタヒチに到着したパンドラ号は、14名の元バウンティ号乗組員(ほとんどが反乱に直接かかわったわけではない乗組員)を逮捕しましたが、クリスチャンをはじめとした数名の反乱者は、すでにタヒチを離れ、タヒチ島の現地人18名(1人は赤子。拉致同然に連れ去られた者もいたらしい)を連れてピトケアン島へと移って生活していました。パンドラ号は8月に暗礁に乗り上げて沈没し、31名の乗員と4名の囚人が死亡しました。翌年、生き残った89人の船員と10人の囚人がイギリスに帰国しました。

10人のうち、4人が無罪、2人が有罪ながら恩赦の判断が出され、1人が法的手続の問題で釈放され、3人が絞首刑になりました。ブライ艦長も軍法会議にかけられましたが、無罪となり、職務に復帰しました。