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歴史小話


ローマ略奪



16世紀はじめ。1450年代から始まっていたイタリア・ルネッサンスの最盛期は、フランスと神聖ローマ帝国(ドイツ)による一連のイタリア戦争、特に1527年5月6日のローマ略奪によって終わりを迎えました。

イタリアを巡り、フランスと神聖ローマ帝国の争いは、1515年にフランスがミラノを占拠すると、1521年に神聖ロ―マ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世(スペイン王カルロス1世)は教皇レオ10世と組んでミラノを奪還しました。

しかし、後のクレメンス7世は、フランス王に付くか神聖ローマ帝国皇帝側に付くかで揺れ、1526年にパヴィアの戦い(1524年)で敗れてカール5世の捕虜になっていたフランソワ1世が釈放され、カール5世に対抗するコニャック同盟を結成すると、これに参加することを決めました。

クレメンス7世がフランス王と組んだことを知ったカール5世はローマに兵を差し向けます。ローマに差し向けられた皇帝軍の中核はランツクネヒトと呼ばれるドイツ傭兵部隊でした。皇帝軍は寒さと雪の中、間道を抜けてアルプスを越えてイタリアに向かいます。飢える者も出る苦難の中、傭兵たちは約束には到底足りない、わずかな給料しかもらっていませんでした。

さらに、イタリア北部で皇帝軍と合流したブルボン公シャルル3世のスペイン傭兵部隊の中にも不穏な空気が流れていました。理由は、給料の不払いでした。ドイツ傭兵とスペイン傭兵の不満は今にも暴発しようとしていました。それは、スペイン傭兵の反乱につながり、ブルボン公はドイツ傭兵の長だったフルンツベルクの陣幕に逃げ込み、一命を取り留めます。

フルンツベルクはドイツ傭兵たちを集めて懸命に説得をしますが、ドイツ傭兵は「金をよこせ!」と叫び、槍を向ける者まで現れました。その説得のさなか、フルンツベルクは脳卒中でそのまま倒れ、一命は取り留めましたがもはや指揮を執れる状態にはなくなりました。ドイツ傭兵たちはスペイン傭兵とともにブルボン公の指揮下に入り、1527年5月6日、ローマで皇帝軍と教皇軍の衝突が始まります。ローマに迫る皇帝軍は2万。ローマ教皇はサンタジェロ城に逃げ込み教皇軍は敗北。皇帝軍はローマになだれ込みます。ところがこの時、皇帝軍総司令官のブルボン公の姿はありませんでした。

ブルボン公は流れ弾に当たって戦死しており、皇帝軍には統制をとれる者がいなくなっていました。兵たちは、ローマで破壊と略奪の限りを尽くしました。修道女をはじめとしたあらゆる女たちは凌辱の対象とされ、聖職者から市民に至るまで男たちは無差別殺戮の犠牲者となり、1万の死体が舗道のいたるところに無造作に放り捨てられ、3千の死体がテーヴェレ川に浮かんでいたと伝えられます。さらに、その殺戮はドイツ傭兵とスペイン傭兵の内輪での殺し合いにさえ発展しました。

兵たちは8日間に渡り略奪の限りを尽くし、ローマに集まっていた文化人、芸術家も殺され、何とか生き延びた者は他都市へと逃げました。文化財は奪われ、教会などの建築物は破壊され、ルネサンス文化の中心にあったローマは完全に破壊されました。人文主義者のエラスムスはその惨状を『これは一都市の破壊ではなく、一文明の破壊である』と嘆いたと伝えられます。

カール5世自身はカトリック教徒でしたので、カトリック総本山のローマへ、ここまでの略奪と破壊を望んでいたわけではありませんでした。この事態を聞いたカール5世は「余の責任ではない」と言い放ったと伝えられます。しかし、皇帝軍を編成し軍を派遣したのは他ならぬカール5世であり、ここまでの事態を招いたのはカール5世の給与支払いモラルの欠如に他なりませんでした。

なお、クレメンス7世は6月に降伏。翌年になって、ようやく皇帝軍はローマを去りました。1529年、教皇と皇帝はバルセロナ条約を結んで和解し、イタリアはカール5世の支配下に入ることになります。