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歴史小話


タイタニック号で生き残った日本人


有名なこんなジョークがあります。「タイタニック号沈没の際、船員は女性と子供を最優先にして下ろさなければならなかった。男性には次のように説得した。アメリカ人には“あなたは英雄です” イギリス人には“それが紳士の振る舞いです” ドイツ人には“これがルールです” それでは日本人には……“皆さんそうしていらっしゃいます”」 しかし、実際にそれを経験した、たった1人乗船していた日本人の細野正文氏の体験とその後貶められた氏の人生を考えると、このようなネタに使うのはあまりにも不謹慎に感じます。……自分のサイトも含めて、ですが。

1912年4月14日。当時世界最大級の豪華客船タイタニック号はイギリスを出港しニューヨークへと向かう処女航海の最中、巨大な氷山とぶつかり3時間とかからずに沈没しました。死者1500名を超える海難史上例をみない大惨事となりました。この事故ののち、海運業の在り方は大きく変わりました。それは、無線の受電を24時間対応にするとか、全ての人間に行き渡る救命ボートを積み込むとか、北大西洋の氷山の監視のためのシステムを導入するとか。現在の感覚からすればあって当然のことが、膨大な犠牲者の上にようやく作られたのです。

タイタニック号は、当時最高クラスの技術を用いられた、安全技術を駆使した設計がなされた客船でした。しかし、ハード面はとにかく、万一のことがあった時の救命ボートはわずか1178名分、最大収容人数の30%を乗せることしかできない数しか用意していませんでした。さらに、乗務員にも、沈没するような事態に備えてどのように対応するべきかという訓練も受けておらず、救命ボートを降ろす時も、だれがどの船を担当すればよいのか分からない状態であったとされます。救命ボートに一体何人乗せられるかも分からず、救命ボートに乗せるのに女子供を優先という命令を忠実に遂行しようとするあまりまだ余裕があるのに男性客を取り残して船を下ろしてしまうボートも多かったとされます。

また、一等、二等、三等のそれぞれの船室の乗客には、救命救助に際してあからさまな差別が存在していました。とくに、三等客室の船客は、その多くがアメリカで一旗揚げようと乗り込んできた移民たちでしたが、彼らの多くが船とともに運命を共にしました。彼らのために門を開けた心ある船員もいましたが、多くの三等船客は混乱の中忘れ去られ、あるいは意図的に放置されました。

唯一生き残った日本人の細野氏は、鉄道院(現在の国土交通省? それともJR?)の官僚でした。音楽家の細野晴臣氏の祖父であることでも知られます。氏は欧米の鉄道を視察するために一年半のヨーロッパでの研究期間を終えてアメリカに向かうところでした。しかし、生き延びて帰国した細野氏は、卑怯者のレッテルを貼られることになりました。

生き残った乗員の証言として、13号に日本人が無理やり乗り込んできた、という証言がありました。また、他にも日本人絡みの証言が数多く残っているとされます。しかし、細野氏は10号の救命ボートに乗り込んでいました。同乗していたアルメニア人も細野氏のことを証言しているとされ、これが事実だったはずです。無理やり乗り込んできた日本人というのは完全なデマでした。細野氏は、西洋人のように口ひげをはやしていたため、アルメニア人と間違えられたのだろうとされます。

しかし、救命ボートに無理やり乗り込んできた日本人という虚報や、「多くの犠牲者が出た中でおめおめと生き残った恥知らず」と日本の世論は細野氏に対して大バッシングを繰り返しました。新聞は、日本男児なら死んでくるべきだったという論調で非難し、道徳の教科書では卑怯者の典型として描かれました。鉄道院は細野氏を免職し、細野氏は1939年に名誉回復の機会もないまま逝去します。さらに1954年の洞爺丸沈没事件でも、細野氏は取り上げられ、再び非難されました。

息子の細野日出男氏や孫の細野晴臣氏は細野氏の名誉回復のために尽力されました。細野氏は、救助されたのちに、手記を残していました。それによれば、衝突に気づいた細野氏は甲板に出ようとしましたが、船員に下に降りるように指示をされました。しかし、実はこの時すでに救命ボートは次々に下ろされていました。これは明らかに人種差別によるものでした。船員を振り切って甲板に出た細野氏は、次々に救命ボートが下ろされていくのを見ていました。女子供が最優先というルールを氏は知っており、最後は日本男児として恥ずかしくないように、妻や残されることになる子供に二度と会えない無念を胸に覚悟を決めましたが、しかし、何とかして最後まで生きる可能性を探そうとする細野氏もいました。最後の救命ボートが下ろされる時、「あと二人」という船員の声が聞こえました。細野氏は、男性客が飛び込むのを見て、これが最後のチャンスと後ろから短銃で撃たれる覚悟で飛びこみました。

このことは、決して細野氏が婦女子を押しのけて生き残ったのではなく、本当に偶然の結果生き残ったものであることを示しています。これらの手記を、ご遺族は事あるごとに公開していましたが、1997年の映画『タイタニック』の公開時に、この手記がRMS財団(タイタニック号の遺品などを管理している団体)の目にとまり、細野氏の名誉が回復されました。このことはアメリカの週刊誌Timesでも取り上げられ、日本でも産経新聞が報じました。

残念ながら混乱の中、細野氏が味わったような経験をされた方は他にも大勢いました。一等船客でも女性客9割が生き残った中、男性客の生存者は3割という状況でした。生き残った方々の中には、生き残ったことにさえ非難の対象になった人が大勢いたのでした。













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