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歴史小話


ドイツ三十年戦争D〜リュッツェンの会戦〜



ブライテンフェルトの会戦の勝利は、プロテスタント陣営の初めての大勝利でした。しかし、そのことがプロテスタント陣営に少なからぬ波紋を引き起こします。カトリック陣営は、最後の切り札としてかつて罷免したヴァレンシュタインの再登板を求めます。総司令官に就任したヴァレンシュタインはいよいよグスラヴ・アドルフと雌雄を決するべくリュッツェンで激突します。


ヴァレンシュタイン再登板

1632年4月。オーストリアのラーズドルフでヴァレンシュタインは皇帝軍復帰の諸条件を皇帝に呑ませます。ヴァレンシュタインは、軍に対する統制権、和平を結ぶ権利、条約を締結する権利、皇帝の嫡子に軍の最高指揮権を与えないこと、スペインの帝国に対するあらゆる影響を排除すること、などを諸条件として提示し、それを受領されたのだとされます。さらには、報酬としてハプスブルグ家の領地の一部と、選帝侯位を受け取るというものでした。テイリー将軍の敗走は、皇帝を震え上がらせ、これまでになく弱気にさせていました。

ヴァレンシュタインは、ボヘミアで隠遁生活を送っている間、怠惰に日々を過ごしていたわけではありません。再度立つその日のための準備を着々と整えていました。ヴァレンシュタインだけが、戦争を遂行し軍を支える能力を有していました。 

ヴァレンシュタインは、早速、足元のボヘミアからザクセン軍を追い払う準備を始めました。その手段はその戦力に訴えるというものではありませんでした。そして、ザクセン侯をそそのかし、6月の終わりにはボヘミアから撤退させることに成功しました。ヴァレンシュタインからしてみれば、さらに、グスタヴ・アドルフからも離反させたかったのですが、そうはなりませんでした。しかし、その企ては半ば成功しました。グスタヴ・アドルフからしてみればザクセン軍にボヘミアを抑えさせておきたいと考えていましたので、彼にザクセン侯とその傭兵隊長アルニムへの不信感を植え付けるに充分でした。

そして7月には、ヴァレンシュタインの軍はボヘミアの国境を越えて進軍を開始し、バイエルン侯との合流を果たすのです。

グスタヴ・アドルフの撤退

レッヒ河の会戦の後、グスタヴ・アドルフは三週間でウィーンに達するだろうといわれていました。しかし、4月が終わり、5月の末になっても、スウェーデン軍はバイエルン領内に留まっていました。その理由は、同盟者であるはずのザクセン侯の動きでした。傭兵隊長アルニムは皇帝軍総司令官へ復帰したヴァレンシュタインがボヘミアで兵士の徴募を始めても何の妨害もせず、さっさとシュレージェンヘと後退してしまいました。5月25日にはヴァレンシュタインによってプラハを再占領され、アルニムはその背後をつくそぶりも見せませんでした。

それを見たグスタヴ・アドルフにウィーンへ向かうことはできませんでした。もしも、ザクセン侯と皇帝が何らかの密約を結んでいたらスウェーデン軍は立ち往生するより他なくなります。

グスタヴ・アドルフは、神聖ローマ帝国内での政治基盤確保のために、いったんニュンベルクまで撤退し、皇帝にプロテスタントに対する寛容な措置を望むことや、いくつかの領地の割譲を求めることなどを、条約を結ぶ上での条件として提示することを決め、新たな連合を組むことを模索します。しかし、ヴァレンシュタインが進撃を開始し、7月の終わりに、バイエルン侯と合流を果たしたため、その計画も後回しにするしかなくなりました。

遺恨と屈辱

7月21日にヴァレンシュタインとバイエルン侯は親しく会談を行い、皇帝家と教会のために力を合わせて戦うことを誓い合います。バイエルン侯はかつて、総司令官だったヴァレンシュタインを追い落とすべく策謀した中心人物であした。バイエルン侯からしても、そのヴァレンシュタインに今度は助けを請わなければならなかったのです。表面的には両者は、共通の目的に向かって、和解されたかのように思えました。

グスタヴ・アドルフはニュンベルク近くのフェルトという地へと一旦後退しました。ヴァレンシュタインはこれを追尾し、レーニッツ川を見下ろす長い峰にキャンプを張り、グスタヴ・アドルフを追い込みます。

グスタヴ・アドルフは、西と南に散らばっていた全軍を呼び戻しにかかりました。ヴァレンシュタインは、スウェーデン軍の糧秣も食料も不足しているはずだと考えました。グスタヴ・アドルフは、戦うか、飢えて死ぬかを選ぶよりない。そして、どちらにせよ皇帝軍有利の状況に変わりはありませんでした。ヴァレンシュタインは、自軍の食料は充分まかなっていたからです。そして、いつでも新たに兵を徴募して軍を再編成できるヴァレンシュタインと比べて、グスタヴ・アドルフにはそれができないのです。

そして、それができないのはバイエルン侯も同じでした。バイエルン侯の連盟軍も、同じく飢えていました。兵を徴募する能力もありませんでした。窮状を訴えるバイエルン侯を、ヴァレンシュタインは一顧だにしませんでした。

瓦解

8月半ばにグスタヴ・アドルフの元に補給部隊が到着します。9月の頭に両者は戦闘になりますが、グスタヴ・アドルフは土地の制約により騎兵を動かすことができず大きな被害を出しました。さらに、ドイツで徴募した傭兵の悪質な行動によって、グスタヴ・アドルフの軍は大きく評判を落としていました。ヴァレンシュタインは、グスタヴ・アドルフの同盟が瓦解するのも時間の問題だと考えていました。グスタヴ・アドルフが9月に、状況を好転させるための切り札として用意した、事態を平和裏に解決するための条約にも反対しました。

グスタヴ・アドルフが提示した条件はプロテスタントへの寛容を求めるものや、廃位された者の復位、諸侯の所領の配置転換や、スウェーデン王がドイツに対して影響を残せる担保ともいうべき施策でしたが、スウェーデンの宰相ウクセンシュルナや、同盟者からも反対の声が上がります。

グスタヴ・アドルフがニュンベルクに留まるよりなくなっているその頃、ヴァレンシュタインは副官ホルクをザクセンに送り込み徹底的に荒らしました。

合流

9月18日、グスタヴ・アドルフはニュンベルクの陣地を放棄し南へと進路をとりました。ニュンベルクのキャンプの中では疫病が蔓延し始めていました。さらに、北東のザクセンでヴァレンシュタインとホルクが合流しようとしているという情報を得て、ヴァレンシュタインの軍の分断を狙ったものでしたがヴァレンシュタインはまずザクセン侯を徹底的に叩いて屈服させようと考えていました。

ホルクとウェザー河にあったパッペンハイムの部隊を合流するように命令を出し、自らもザクセンへ向かいます。ザクセン侯はその報告に震え上がり、グスタヴ・アドルフに救援を求める書状を送ります。10月9日のことでしたが、そのときすでにザクセンへ向かって進路を取っていました。

10月22日にグスタヴ・アドルフはニュンベルクに到着しましたが、ヴァレンシュタインが荒らしまわったキャンプ跡を視察したとき、病気になってしまいしばらく動けなくなりました。そこには、死体や死んだ牛馬が放置され、負傷兵や飢えた兵士が世話するものもなくさまよっていました。

11月2日にはザクセン−ヴァイマールのベルンハルト公がグスタヴ・アドルフと合流します。  

グスタヴ・アドルフはこの冬に自身の勢力基盤を確立しようと考えていました。宰相ウクセンシュルナにそのための用意をするように詳細に記して手紙を送り、出撃を開始しました。

皇帝軍は、11月6日にヴァレンシュタインとパッペンハイムが合流します。

グスタヴ・アドルフにザクセン侯が合流することはありませんでした。グスタヴ・アドルフの軍は1万6千。しかも、4千の馬が進軍する途中で死に、放棄せざるを得ませんでした。対する皇帝軍の兵力は2万6千。皇帝軍有利の状況にグスタヴ・アドルフはためらいます。

しかし、15日に捕虜にしたクロアチア人からパッペンハイムの部隊をハレ市に派遣したという情報を手に入れます。これはチャンスでした。

リュッツェンの会戦

霧の中での戦い

15日の夕刻までに、グスタヴ・アドルフの軍はリュッツェンに到着しました。ヴァレンシュタインはその知らせを聞いて大慌てでパッペンハイムの軍を呼び戻すための急使を送ります。今の、ヴァレンシュタインの兵力は1万数千にすぎません。しかし、戦闘を行うには暗すぎました。ヴァレンシュタインの軍は急ぎ土塁を積み、砲台を設置し、戦闘の準備を整えたのです。

16日は快晴でしたが終日霧が立ち込め地面が濡れていました。あたりには遮るものもない平原でした。グスタヴ・アドルフはリュッツェン市を前面、左手に見える位置に陣を敷きました。右翼にはグスタヴ・アドルフの部隊が、左翼にはベルンハルトの部隊が陣形を整えます。それは、グスタヴ・アドルフがブライテンフェルトでも見せた自慢の陣形でした。グスタヴ・アドルフの部隊の正面には皇帝軍副官のホルクが、ベルンハルトの正面にはヴァレンシュタインが対峙します。

午前8時ごろにいよいよ砲撃が開始されました。それから2時間の間、両軍は動きません。スウェーデン側は何とか引きずり出そうと挑発を行いますが、ヴァレンシュタインは動きませんでした。10時をすぎたころ、霧がようやく薄くなってきました。

グスタヴ・アドルフの部隊がホルクの騎兵に攻撃を仕掛けました。激しい戦いの後、銃兵は追い立てられ、騎兵も後退を余儀なくされます。ヴァレンシュタインは、リュッツェンに火を放ちました。戦場へと流れてきた煙は、ベルンハルトの軍へ流れていき、彼らの目を曇らせました。

その煙幕の元へ、クロアディア騎兵隊が突入してきます。ベルンハルトの兵たちはザクセン軍よりはるかに勇敢でした。彼らは、激しい戦いの中、何とか持ちこたえ、その戦列を維持したのです。

パッペンハイム到着

霧と煙幕は、部隊を個々に切り離し、状況を分かりにくくさせていました。勢いに乗っているのはスウェーデン軍でした。しかし、午後になってようやくパッペンハイムの軍が到着し、勢いに乗るスウェーデン軍に攻撃を仕掛けます。攻勢に乗っていたスウェーデン軍の部隊は退却を余儀なくされました。

しかし、せっかく到着したパッペンハイムに不運が起こります。攻撃の最中に胸に銃弾を受け、倒れたのです。パッペンハイムは急いで運ばれましたが、ライプツィヒに向かう途中で命を落とします。

グスタヴ・アドルフ戦死

今にも、皇帝軍を殲滅しようかというスウェーデン軍でしたが、そこでとんでもない事態が彼らを襲います。グスタヴ・アドルフを載せたはずの軍馬が乗り手をなくして走り回っているのです。皇帝軍の兵士はグスタヴが死んだ!と叫びます。

それはグスタヴ・アドルフ自身が先頭に立ち皇帝軍に攻撃を仕掛けるさなかに起こった出来事だとされます。皇帝軍のゲッツ、ピッコロミニの両胸甲騎兵連帯はスウェーデン軍の歩兵連隊の中央を攻撃したところでした。

グスタヴの左肘に銃弾を受け、左腕は折れてしまいます。騎兵部隊はそのまま前進し、グスタヴ・アドルフは馬を下りて腕を固定させようとしましたがとても戦線に復帰することは出ませんでした。

王とその護衛は急いでスウェーデン軍の戦列に戻ろうとしますが皇帝軍の胸甲騎士部隊と遭遇します。逃れようとしたグスタヴ・アドルフらでしたが、護衛が殺され王自身も背中を撃たれ落馬します。圧倒的な敵兵の前にもはやなすすべはありませんでした。

そこに、ピッコロミニが現れます。グスタヴ・アドルフにはまだ息がありました。ピッコロミニの部下たちはこの男がグスタヴ・アドルフだと確信していました。部下の一人が銃を抜き、グスタヴ・アドルフに止めを刺しました。この朗報を、皇帝軍の副官ホルクは全軍に伝えます。

スウェーデン軍の将校は何とかこの事実を隠そうとしましたが、最高指揮官がいない状況がいつまでも隠せるはずがありませんでした。普通なら、スウェーデン軍の敗走が始まるはずでした。

戦闘の行方

王が倒れました。そのことが逆にスウェーデン軍を奮起させました。右翼のベルンハルトが急ぎ指揮を執り戦陣を立て直します。ベルンハルトの軍と交戦していたヴァレンシュタインの軍は、ついにリュッツェンへ向かって後退し始めました。おのおの交戦していた部隊も、ついにスウェーデン軍の圧力に抗しきれずに敗走を始めた。

暗くなり、ヴェレンシュタインはついにハレに向かって軍を後退させます。確かにグスタヴ・アドルフは死にましたが、これは皇帝軍の屈辱的な敗北でした。

グスタヴ・アドルフの遺体

戦闘終結後の暗い中、スウェーデン軍の兵士たちは、王の遺体を発見します。王の遺体からはシャツ3枚を残してすべて戦利品として持ち去られていました。その中でも有名なバフコートはピッコロミニから皇帝フェルディナント2世に送られました。ようやく帰国することになったのは第1次世界大戦の終了後、オーストリアからスコットランドの赤十字に対する感謝の印として返還されたときでした。

ここでは、あくまでも戦闘の中で死んだという説を採っていますが、背中などに傷があったことから裏切りの説もささやかれました。詳しいことは、今もあの霧の中に隠されています。

グスタヴ・アドルフは近世に入ってからは珍しい、戦場で死んだ王となりました。最後まで最前線に立って指揮を執ったグスタヴ・アドルフらしい最期でした。享年37歳。

神聖ローマ帝国を脅かした征服者は消えましたが、混乱はまだまだ続きます。




【参考書籍】