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歴史小話


ドイツ三十年戦争E〜神聖ローマ帝国の死亡診断書〜



リュッツレンの会戦でグスタヴ・アドルフは戦死し、それから程なくヴァレンシュタインも暗殺されます。その後、戦争は泥沼のまま、16年もの間、不毛な戦闘を繰り返すことになったのです。もはやそこに宗教戦争の側面はありませんでした。戦争がはじまったころの主だった面々はもはやこの世になく、戦争を引き継いだ世代は、戦争を終わらせる方法を模索するようになります。

グスタヴ・アドルフ戦死の波紋

グスタヴ・アドルフ戦死の報は帝国中を駆け回ります。カトリックたちは「これは天罰なのだ!」と叫びます。「グスタヴ・アドルフのうえに神の恩恵などなかった。スウェーデン王の邪悪な振る舞いに、神が鉄槌を下したのだ!」

プロテスタント諸侯たちも、自分たちの失った存在の大きさを知りました。新たな独裁者の存在を恐れた彼らでしたが、スウェーデン王の死によって何もかにもが振り出しに戻ってしまったのです。

そして、ボヘミア冬王フリードリヒもグスタヴ・アドルフの死後2週間後して命を落とします。ペストでした。プファルツ選帝侯への復位を望み、しかし、スウェーデン王の風下に立つことを何よりも拒みました。その頑迷さの結果、戦争をいたずらに長引かせ国土は荒廃し、多くの人民に犠牲者が出ました。しかし、そのフリードリヒもこの世を去りました。戦争を始めた人間が次々消える中、戦争終結の道筋は未だ見えてきませんでした。

ハイルブロン同盟

グスタヴ・アドルフの死後のスウェーデンの戦争を引き継いだのは宰相ウクセンシュルナでしたが、賢明な宰相は直ちにこの戦争の目的を切り替えました。このまま、ドイツにとどまるのはとても危険でした。だからといってすぐに引き上げたのでは、国内は納得しません。わずか人口100万人程度の小国は、多大な犠牲を払ってこの出兵を行っていたからです。

神聖ローマ帝国は平和に向けて動き始めていました。スペインとオーストリアの関係は修復に向かいつつありました。カトリックや皇帝陣営の考える平和では、多くのものを失うウクセンシュルナもリシュリューも新たな施策を打ち出し、自国の利益を護ろうと汲々としていました。

プロテスタント諸侯はグスタヴ・アドルフが消え庇護者を失うと右往左往し始めました。このまま戦争が終わってしまったら弱小のプロテスタント諸侯の運命は日を見るより明らかです。

そこで1633年5月、プロテスタント陣営はスウェーデンと同盟を組みます。ハイルブロン同盟です。これに慌てたのはフランスのリシュリュー枢機卿とザクセン侯です。リシュリューは戦後の影響力低下を恐れ、ハイルブロン同盟の宗主の地位を要求してきます。カトリック国だったフランスでしたが、この戦争にもはや宗教戦争としての要素は失われていました。フランスの自国の利益のみを考えた行動に、ウクセンシュルナも激怒しますが、スウェーデン軍の戦費の多くがフランスの国庫から出てきている現状では、とてもそれを跳ね除けられようはずもありません。渋々ながら、同盟に対するフランスの一定の影響力を与えることに同意せざるを得ませんでした。

ザクセン侯は元来保守的な人物でした。彼が望んだのは神聖ローマ帝国から外国勢力の影響力を排除すること。そのためには最終的に皇帝の下に貴族共和制的な帝国を築くことでした。ザクセン侯が求めたプロテスタント諸侯の宗主としての地位もそのための手段でした。

しかし、ハイルブロン同盟の成立によってその見込みはなくなりました。そこで、皇帝側との単独講和の道を探るようになります。

ヴァレンシュタイン暗殺

1634年2月。古い城郭都市エッガーで皇帝軍総司令官ヴァレンシュタインが暗殺されます。歴史上最大の傭兵隊長にして、今や4万5千の兵を率いる軍の司令官にしてはあまりにもあっけない最期でした。命令を下したのは皇帝フェルディナント2世。この暗殺がこれほどあっさりとはたされた理由は、わずかな将を除き、ことごとく皇帝側に寝返ったからでした。

リュッツェンでは敗北したとはいえ、グスタヴ・アドルフを戦死させたヴァレンシュタインは4万5千の兵の総司令官として、いまだ絶対的な権限を持っていました。ザクセン侯との単独講和の窓口になったのもヴァレンシュタインでした。ザクセン侯側の窓口は傭兵隊長アルニムでした。アルニムは、ヴァレンシュタインに皇帝からの離反をささやきます。さらに、本来権限を持っていなかったスウェーデンとの交渉にも秘密裏に乗り出します。ウクセンシュルナもまた、皇帝からの離反を促します。

これらの交渉は失敗に終わりました。ヴァレンシュタインは、皇帝からの離反の誘いに乗りませんでした。しかし、さらに、フランスが皇帝からの離反を薦めます。それがなった暁には、ボヘミアの王位を約束するという条件までつけてきました。

果たして、ヴァレンシュタインが、どこまで皇帝からの離反を本気で考えたのか……。もしも考えたのなら何のために……。いずれにせよ、それが現実のものになることはありませんでした。

1633年11月スウェーデン軍の傭兵隊長ベルンハルトがバイエルン領に侵入します。皇帝は反撃を命じますが、ヴァレンシュタインはボヘミアから動きません。何の抵抗もなく領地内を荒らされたバイエルン侯は怒り心頭で皇帝にヴァレンシュタインの再罷免を要求します。皇帝もまた、この行動に怒りを覚え、1月終わりに、ヴァレンシュタインの罷免を決めます。さらに、ヴァレンシュタインの逮捕、もしくは殺すように命じます。

ヴァレンシュタインが作り上げた軍税のシステムは、常備軍設立への道筋を整え、国家の近代化への道筋をつけることに成功しました。しかし、それを行うのは軍、ましてや一介の傭兵隊長であってよいはずがありません。皇帝直属の機関によって行われなければならないのです。神聖ローマ帝国が新たな時代に進むためには、ヴァレンシュタインの勢力は不要……それどころか抹殺の対象以外の何者でもありませんでした。そして、この時ヴァレンシュタインが率いた兵は、皇帝がヴァレンシュタインが築いたシステムを利用して集めた兵でした。ヴァレンシュタインは、その総司令官に任じられたにすぎず、デンマーク戦争のときのような忠実な私兵たりえませんでした。

ネルトリンゲンの会戦

ヴァレンシュタインの後を引き継いだのは皇帝の嫡男フェルディナントでした。若干26歳のフェルディナントは、若くしてボヘミア王となり、皇帝の後継者と目されていました。そして、今回の皇帝軍総司令官の就任。さらに、かつて否決されたローマ王にも選出され(1636年)、名実ともに帝国の最高権力者への道を登っていきました。

その新たな皇帝軍最高司令官は、親戚のネーデルランド総督フェルナンドと手を組み1634年9月にネルトリンゲンでハイルブロン同盟軍を徹底的に叩くことに成功します。

スウェーデン軍は4つの軍団で編成されていました。ホルン、バネールのグスタヴ・アドルフ存命の頃からの忠実な将に、信頼の置ける同盟者であるヘッセン・カッセル方伯。さらに、リュッツェンでグスタヴ・アドルフに代わり指揮を取り皇帝軍を敗走させた傭兵隊長ベルンハルト。

しかし、このベルンハルトの存在がスウェーデン軍に混乱をもたらします。優秀な傭兵隊長ではありましたが、自らの能力に大きな信頼を置いていたベルンハルトをスウェーデン軍の将は信頼できずにいました。さらに、フランスはベルンハルトを抱き込みにかかります。

ついでに、この時ザクセン候配下だったはずの傭兵隊長アルニムもいつの間にかスウェーデン軍に走っていました。7月、ホルンと、ベルンハルトがバイエルン領内に、アルニムは皇帝軍司令官の本拠地ボヘミアのプラハ城を目指して侵攻を始めます。フェルディナントは兵をプラハの救援ではなく、手薄になったドナウ河畔のプロテスタント諸侯領に向けます。スウェーデン軍は急ぎアウスブルグ郊外のネルトリンゲンに撤退します。

9月初めに、フェルナンドの軍と合流した皇帝軍は、ネルトリンゲンでスウェーデン軍と雌雄を決します。そして、皇帝軍はスウェーデン軍を完膚なきまでに叩き潰し、多大な損害を与えることに成功しました。スウェーデン軍の敗因はホルンとベルンハルトの反目にありました。統率が取れなくなったスウェーデン軍は数に勝る皇帝軍の前になすすべもなく蹴散らされたのです。

この勝利は、皇帝軍とスペインが一致協力して得たものでした。神聖ローマ帝国におけるスペインの影響力は否応なく大きなものになっていきます。この勝利の報を聞いた皇帝フェルディナント2世はこの上ないほどの大喜びをしたといいます。そして、この勝利は、ブライテンフェルトやリュッツェンの敗北を帳消しにして余りあるものでした。いよいよ平和に向けた動きが始まります。

プラハ和平条約

ネルトリンゲンの会戦の勝利以降、破竹の勢いで勝ち続ける皇帝軍の勢いに、スウェーデンもハイルブロン同盟もなすすべもありません。ハプスブルグ家はこのチャンスを逃すまいと平和に向けて動き始めました。そのために、あれほどこだわった回復礼の撤回も内容に含めました。もはや皇帝の目的は皇帝を頂点とした神聖ローマ帝国の統一による平和でした。そのために、ある程度の宗教的寛容さも示しました。諸侯にも気を使い、大きく譲歩もしました。白山の戦いとその後の報復的な事後処理が帝国にどれほどの混乱をもたらしたのか、フェルディナント2世もよく覚えていたのかもしれません。

ザクセン侯、バイエルン侯と立て続けに和平条約に署名すると、諸侯も雪崩をうったように条約締結に動きます。最後まで、署名を拒んだのはわずかなプロテスタント諸侯のみでした。

1636年12月の終わりに、皇帝軍総司令官の皇帝の嫡男フェルディナントがローマ王に選出されると、それを見届けるかのように数週間後、皇帝フェルディナント2世はこの世を去ります。ハプスブルグ家による、絶対君主的な神聖ローマ帝国皇帝位を目指し、戦い抜いた生涯は、その夢の実現を見届けて幕を下ろしました。それが……ただの幻に過ぎなかったにしても。

もちろん、神聖ローマ帝国皇帝に選出されたのはローマ王。皇帝フェルディナント3世の誕生です。そして、戦争は収束に向かうはずでした。

意義を失った戦争

プラハ和平条約に最も困り果てたのはスウェーデンの宰相ウクセンシュルナでした。もはや、スウェーデン軍は帝国内で孤立していました。ウクセンシュルナは最後に残されたカードを切ることを決意します。すなわち、フランスの本格参戦です。

そのために、屈辱的な譲歩をしてでも、引きずり出そうとしました。リシュリュー枢機卿も、このままハプスブルグ家による神聖ローマ帝国統一を指をくわえて眺めているわけには行きません。ついに、スペイン・オーストリアのハプスブルグ家と、フランス・スウェーデンの同盟軍との戦争にその姿は変容していました。

14年間

戦争はまだまだ続きます。しかし、いまや、この戦争は何のために続いているのでしょう。フランスはカトリック教国で、しかし、プロテスタントのスウェーデンに公然と支援をしていました。それでも、最初は宗教的意味を持っていたはずでした。しかし、もはやこの戦争は単なる権力闘争にすぎません。いや、最初からそうだったと言われればそれまでですが。

戦争の主人公たちも、次々と消えました。テイリー将軍がまず戦場を消え、グスタヴ・アドルフは戦死、ヴァレンシュタインは暗殺。ボヘミア冬王フリードリヒも、皇帝フェルディナント2世も、この世にはいません。

主役を失った物語は終結の道筋すら見えないままに、いたずらに混迷を続け、軍は転戦を続けさまよい続けます。

もちろん、その間にもドラマはありました。フランスに身を投じたベルンハルトがその後どのような運命をたどったかとか。スウェーデン軍の最高指揮官になったバネールも、文官のウクセンシュルナからの離反を考えていたこととか。ブランデンブルグ選帝侯に、後に大選帝侯と呼ばれるフリードリヒ・ヴィルヘルムがなったりとか。

まだまだ、さらに一章費やしても足りないドラマのあるこの三十年戦争ですが、そろそろ終わりにしたいと思うのです。

三十年戦争終結に向けて

フランスは参戦当時は振るいませんでしたが、やがて連戦連勝を繰り返すようになります。フランスもスウェーデンも兵力増強に力を入れ、皇帝軍は後手後手に回ります。

1641年にブランデンブルグがスウェーデン軍により撃破されると、戦線離脱します。

1642年、リシュリュー枢機卿が死に、マゼランがその後を継いでも、状況は変わりませんでした。

そのころ、スペインも海ではオランダ海軍の前にスペイン海軍は身動きが取れなくなり、ポルトガル、カタロニアが反乱を起こし、スペインは神聖ローマ帝国に手を貸していられる状況ではなくなっていました。さらに、フェルディナント3世にとっては盟友のネーデルランド総督フェルナンドも1641年に死去し、スペインはあてにも頼りにもならなくなりました。

皇帝フェルディナント3世は戦争の終結の道を模索します。フランス・スウェーデンもまた、戦争のための戦争から抜け出すための道を探っていました。ようやく、本当に和平の道が開かれようとしていました。

しかし、そのための講和には5年の歳月が必要になりました。しかし、フランス・スウェーデンによってプラハの一部が占拠され、軍はウィーンにも迫ろうという状況になり、ついにフェルディナント3世は力尽きました。1648年10月。和平条約に、署名をしたのです。

ウェストファリア条約

ウェストファリア条約は、神聖ローマ帝国の死亡診断書とも称されます。この条約によって、神聖ローマ帝国は皇帝の名称こそ残されたものの、諸侯おのおのが主権を持った独立国として解体されたのでした。その中で、後に大きな力を持つようになるのはブランデンブルグ選帝侯のプロイセン王国でした。ドイツを統一に導くのはそのプロイセン王国ですが、それには200年以上の時を待たなければなりません。

この中で、意外とも言えるほどの譲歩をしたのはスウェーデンでした。最も血を流し、ウィーンにまで迫った戦勝国とは思えないほど、大幅な譲歩をし、わずかな戦利品しか手に入れなかったのです。それを決定したのは誰であったのか。宰相ウクセンシュルナでしょうか。いえ、この譲歩に先頭に立って反対をしたのは、その宰相ウクセンシュルナでした。そして、一日でも早い戦争の終結を願い、スウェーデンの利益を捨ててでも講和を成立させようとしたのは、スウェーデンの若い女王クリスチナでした。

グスタヴ・アドルフの遺児であった彼女は、わずか6歳で即位しました。講和会議が始まった1644年に18歳で親政を始めた女王は、生まれながらの女王の威厳と、聡明さを併せ持ち、強いリーダーシップを発揮しました。美しい女性でありながら男勝りで、着るものには無頓着であったといいます。この後には突然の退位や改宗など、彼女の生涯は波乱に満ちています。

とりあえず、クリスチナ女王の反対派を抑えての(ウクセンシュルナは怒って辞表を出しましたが、クリスチナは受理しませんでした。)譲歩によって、ウェストファリア条約」は締結されました。彼女の平和への強い意志がそうさせたものでした。もちろん、ウクセンシュルナの考えが間違っていたわけではありません。スウェーデン一国にとって得るべきものは得なければならないからです。一国の国益と、一個人の理想と。この時の彼女は、最後まで己の理想を貫き通しました。

神聖ローマ帝国のその後

この戦争によって、ドイツの国土にも人民にも大きな被害が出ました。それが元のレベルまで回復するのに2世紀を有したとさえ言われます。

その結果、神聖ローマ帝国はあらゆるドイツ諸侯が主権を有する乱立国家となりました。帝国や皇帝の名称は残ったものの、もはやただの飾りにすぎませんでした。帝国はまさしく死に体となりました。それなのに帝国が完全に解体されるには1806年まで待たなければなりません。

この戦争は、初期の頃こそ、帝国内の宗教戦争ではありましたが、最初からオーストリア・ハプスブルグ家とフランス・ブルボン家の権力闘争でした。ドイツが統一され、フランスにとって脅威になることを嫌ったフランスが、宗教の名を借りて戦争に介入し、結果、諸侯の分断に成功しました。プロイセンがドイツを統一する際には、このフランスの影響力を排除した上で行わなければなりませんでした。




【参考書籍】