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歴史小話


アルマダの海戦〜1588年8月 時代背景〜



16世紀の終わり。当時の大国スペインは、新興国であったイングランドを制圧し支配下に置くために、総力を結集した無敵艦隊を送ります。イングランド海軍は総司令官、トーマス・ハワードに率いられ、ドーヴァー海峡で無敵艦隊を迎え撃ちます。この海戦は、西洋史の舞台が地中海から大西洋へ移る最初の海戦でした。


時代背景

百年戦争の終結

1453年、イングランドとフランスの間で交わされた長期にわたる戦争は、イングランドがフランス内の領土をカレーを除いて全て失い撤退したことで一応の決着を見ます。

この後、イングランドが大陸に対して領土的な侵攻を企てることはありませんでしたが、アフリカ大陸、東南アジアへとその勢力を広げ、大英帝国を築き上げます。

百年戦争終結後、イングランド国内ではばら戦争と呼ばれる内戦が勃発。テューダー王朝が成立します。今回の舞台であるアルマダの海戦の当時はプリテン島へこもって国力の充実を図っていたイングランドが再び世界へ向けて飛び出していった時期でした。

レキンコスタ(国土回復運動)の完成

8世紀にイスラム教勢力がイベリア半島に上陸して以降、キリスト教勢力はこれらをイベリア半島から排除せんと闘争を繰り広げます。数百年に渡り繰り広げられた争いは1492年、イベリア半島のキリスト教国カスティーリャ王国(スペインの前身。この当時はイザベラ女王の時代であり、同じくイベリア半島のアラゴン連合王国のフェルナンドとは夫婦。その孫、カルロス1世の時からハプスブルグ朝スペインがスタートします)が、イベリア半島のイスラム教国グラナダ王国を征服し、イスラム勢力を駆逐します。その後も、イスラム教徒(アラブ人などのことを総称してモーロ人と呼びます)に対し、厳しい弾圧が加えられ、キリスト教へ改宗しないモーロ人は容赦なく追放されました。しかし、この政策は結果として、優秀な技術者や金融関係に精通した経済人なども、追放する結果となり、後のスペインの国力を低下させる大きな要因となりました。

大航海時代

ルネサンス期は羅針盤などの高い航海技術や、大砲などの強力な武器を生み出しましました。そして、西欧の国々は外洋へと乗り出していきます。最終目的地はインドでした。当時は同量の金と交換されるほど、湖沼は貴重品で、しかし、陸沿いにインドまで向かえば、旅の道は困難を極め、持ち帰れる量も限られてきます。

大航海時代の先陣を切ったのはポルトガルでした。15世紀の初め、まずは西アフリカ沿岸の探索から始まります。1427年、アゾレス諸島を確認します。(それ以前にフェニキア人によって発見されていた)そしてさらにその先へと探索は進められ、1488年に喜望峰が発見され、1498年5月、ヴァスコ・ダ・ガマによってインド航路が確立されます。

大西洋の海洋覇権の争いに一歩出遅れたカスティーリャのイザベル女王の下に、1485年、クリストファ・コロンブスなる人物が訪れ、西回りでのンド到達を進言します。彼は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に大きな感銘を受け、黄金の国ジパングの存在を信じていました。そして、計算上、西に回ったほうが遥かに近いと考え、まずはポルトガル国王の所にこの話を持ちかけます。しかし、拒否され、イザベル女王の下に赴いたのでした。女王がその突拍子も無い話をどこまで信じたのかはとにかく、援助を約束します。1492年の8月、コロンブスは3隻の船に百2十人の船員と共に乗り込み出航します。そして様々な困難を乗り越えて10月12日、最初の島グアナハニ島へ上陸。サン・サルバドールと命名します。翌年1月まで周囲の島々の調査を行い、帰国します。彼はその後3度の航海を行い、1498年の調査で間違いなくアメリカを発見しています。しかし、コロンブスの調査報告より、より詳細に、アメリカの大陸的性格、独立性を証明したフィレンツェ人のアメリゴ・ヴェスピリッヂの名を取って、アメリカ大陸と名づけられました。

1519年から1522年にモルッカ諸島を目指したマゼラン船団の1隻(1521年にフェルディナンド・マゼラン本人はフィリピンで原住民によって殺害される)が世界周航を達成し、世界が丸いことを証明します。

アメリカ大陸ではインカ帝国がピサロによって、アステカ王国がコルテスによって征服されます。

大航海時代は胸躍る冒険の時代であると同時に侵略時代に他なりません。大陸では先住民たちが過酷な労働を強いられ、数が減ると、アフリカ大陸の先住民が奴隷として売られます。もちろん、当時としては、それは別に悪でもなんでもなく、当事者たちが罪の意識にさいなまれることは無かったのでしょうが。 アメリカ大陸は膨大な富をスペインに供給します。スペインは領土的にも世界中に植民地を持つ、日の沈まぬ大帝国となります。さらに、1580年に大航海時代の先陣をきり、スペイン同様巨大な植民地を有していたポルトガルを併合。スペインは最盛期を迎えます。

しかし、この頃にはイギリス、フランス、オランダなどの新興勢力が台頭してきます。その中でもイングランドは、フランシス・ドレークなる海賊を公然と支援し、スペインの植民地を荒らします。

オランダ独立戦争

16世紀の初めにマルティン・ルターによって口火を切られた宗教改革の波はヨーロッパ中に拡がっていきます。

カトリック教会の教皇権を認めないプロテスタント教会を擁護する勢力と、カトリックの擁護者たらんとする勢力。この両者の対立はヨーロッパに新たな戦乱の火種を生み出します。

スペインとネーデルランド(オランダとベルギー)は共にハプスブルグ家の支配下に置かれていました。ネーデルランドでは固有の法や権利を保障され外国部隊の駐留は認めないといった『ネーデルランドの自由』が保障されていました。そして、ヨーロッパの交易の中心点として産業・金融など大きな繁栄を続けていました。全ヨーロッパに開かれたこの土地にも宗教改革の波が押し寄せます。1520年ごろにはルター派が、1543年以降はカルヴァン派がその勢力を拡げます。 

1556年にスペイン王位を含めた巨大な支配地域を受け継いだフェリペ2世は絶対主義的な支配を打ちたて始めます。この王の時代にスペインはアメリカ大陸からもたらされる巨大な富を背景に最盛期を迎えます。しかし、国内ではモリスコの反乱が、対外的には地中海ではオスマン帝国と対立し1570年にはレパントの海戦が起こります。フランスとの対立も激しく幾度となく衝突しますが、最も深刻な事態を引き起こしたのはこのネーデルランドでした。

当初は決してネーデルランドがスペイン・ハプスブルグの支配からの独立を目指したものではなく、もともと持っていた『ネーデルランドの自由』を取り戻そうとしたものでした。しかし、スペイン国王の回答は弾圧と粛清でした。ネーデルランドの宗教的迫害に無関心であった層にも反スペインの機運が高まり、1568年オラニエ公ウィレムを首謀者とする軍事蜂起が勃発します。

スペインはネーデルランド独立派内に潜んでいた対立をあぶり出し、南部十州をスペインに帰順させることに成功します。これが後のベルギーであり、残った北部7州はユトレヒト同盟を結成。永久に結合し、抵抗を続けていくことを誓い合います。

オラニエ公ウィレムは1584年に暗殺されますがその後も独立戦争は続き、ようやく1609年になって。スペインとの間に12年間の休戦条約は結ばれました。

その戦争の中でイングランド女王エリザベス1世は積極的にネーデルランドを支援。1585年にはレスター伯率いる部隊をイングランドへ送ります。

フェリペ2世はネーデルランドの反乱を沈静化させるには、それを支援する外国勢力排除こそ重要と考えるようになります。性格や思想こそ違えど、慎重で現実主義者で、同じくらい理想主義者だった両者は、いずれ来るであろう全面対決を予想しながらも、まがりなりにも平和的に事を収めようとし続けましたが、スペインで最も富裕な地をこれ以上邪教(カトリックから見れば)に侵されるわけにはいかないと、ついに出兵を決断したのでした。

女王の海賊 フランシス・ドレーク

15世紀から16世紀の初めにかけてカリブ海を荒らしまわったフランスの海賊たちは時を追って減少していきます。本国のスペインとの争いや、内戦の影響を受けてしまったからでした。その代わり台頭してきたのはイングランドの海賊たちでした。スペインとイングランドの関係はスペインとフランスが争っている間、強固な同盟関係が築かれていましたが、1558年のエリザベス1世の即位以降、両国の関係は悪化していきます。

1568年、ジョン・ホーキンズに付いてスペイン領アメリカ大陸で交易を行おうとしたドレークは、トラブルから現地のスペイン艦隊と交戦となり命からがら逃げ帰ります。この屈辱を返さんと、カリブ海でスペイン船を狙い、海賊行為を繰り広げ、エル・ドラゴ『悪魔の化身』と恐れられるようになります。

ところで、いわゆる海賊と私掠というのには多少の差があります。というのは、私掠というのは国から令状を発行された合法的な海賊行為だったからです。……あくまでもイングランドから見て、ですが。彼らが得た富は、女王の懐にも流れ込んでいたのでした。さらに、私掠船のもう1つの意味は、有事の際に集めることが出来る熟練の海軍兵士ということでした。この時代の海軍(陸軍も)は大規模な艦隊を用意することはできず、国が保有していたのはわずかな数でした。有能で熟練の技術を持った私掠船船長と乗組員は、いざというときの国の守りでもあったのです。つまり、彼らは現代風に言えばテロリストであり、予備役の海軍士官と軍人でもあったのです。

フランシス・ドレークの最も華々しい航海は1577年に行われたマゼラン以来となる世界周航でした。世界中の新たな土地に触れ、莫大な富を持ち帰ります。1580年、帰国したドレークを女王は接見し、詳しくその航海について尋ねたばかりでなく、貴族(サー)の位まで授けます。スペインはそれに対し激怒しますがエリザベス女王は意に介さず、さらに5年後、再びドレークを放します。それはもはや私掠などという規模ではありませんでした。21隻の軍艦に2300の兵士。その中には女王の2隻の軍艦も含まれていたのです。

アメリカ大陸のスペインの植民地、サント・ドミンゴ、カルタヘナ、セント・オーガスチンなどを攻撃し、略奪し、焼き払ったその行動は、もはや、イングランドの外交手段などではなく、ドレークの海賊行為などでもなく、明確な戦争行為――宣戦布告でした。ここに来て、ついにスペイン国王フェリペ2世は最終決断を下します。

エリザベス以前のイングランドの王

エリベス女王が即位する以前、イングランド国王メアリ1世とスペイン国王フェリペ2世の間で婚姻関係が結ばれていた時期がありました。メアリ1世はエリザベス1世の姉にあたりますが母親は違っていました。父親であったヘンリー8世はメアリ1世の母であるキャサリン(フェリペ2世の父親の神聖ローマ帝国皇帝カール5世の叔母)と離婚をするためにローマ教会(ローマ教会に結婚の無効を宣言してもらうことができなかったため)を離れイングランド国教会を設立しプロテスタントに改宗します。しかし、3年と経たずに再婚したエリザベスの母、アン・ブーリンに不義の汚名を着せて処刑し、その結婚は最初から無効であったと宣言します。

その後、弟が生まれ、1547年にエドワード6世として即位します。もしも彼が立派に成長していればエリザベスが女王の地位につくことはなかったのでしょうが、エドワード6世は16歳の若さで早逝し、メアリが女王の地位につきます。メアリ1世はカトリックへの復帰を成し遂げ、プロテスタントを激しく弾圧します。エリザベスも命の危険を感じ、表向きカトリックへ改宗したように見せかけます。メアリ1世とフェリペ2世の間に子供が生まれたら……世界は震え上がりますが、子供を生むことないまま1558年にメアリ1世は死去。ついに、25歳のエリザベスに女王の地位が回ってきます。

スコットランド女王 メアリ・ステュアート

イングランドの北。スコットランドにはヘンリー7世の曾孫にあたるメアリ・ステュアートがおりました。彼女は1558年にフランス皇太子フランソワと結婚しており、スコットランドとフランスの間には大きなつながりがありました。それを後ろ盾にイングランドの王位を要求します。エリザベスの母、アン・ブーリンは正式な妻ではなく、つまり庶子であるエリザベスには王位を継ぐ権利はない、と。それが決して不当な要求ではなかったのはエリザベスの死後のイングランド王がメアリ・ステュアートの子孫から輩出されたことからも明らかです。

その頃、スコットランドにも宗教改革の戦火が勃発します。皇太子フランソワが国王となり、フランス王妃となったメアリ・ステュアート。スコットランドとフランスの関係は、イングランドにとっては脅威でした。スコットランドのフランス駐留軍に対する反発は、スコットランド内のプロテスタント貴族を中心に高まり、反乱が起こります。フランス軍の装備は圧倒的で反乱は鎮圧されそうになりますがイングランドが介入。ついに、スコットランドからカトリック・ローマ教会の権威を排除しました。スコットランドには『長老主義教会』なる宗教組織が発足します。

18歳という若さで夫のフランソワ2世を失ったメアリは帰国し、スコットランドの現実に愕然とします。メアリはあくまでカトリシズムを守るため、プロテスタントの指導者とも論戦を行いますが溝は埋まらず、国内は混乱が続きます。その状況を抑える力はメアリにはありませんでした。

2人の女王……エリザベスにもメアリにも沢山の求婚者が現れました。ヨーロッパ諸国の君主やその親族。まさに、それは国家の決断でした。互いに互いを牽制しあいます。エリザベスは自分の結婚を上手に利用し、最後まで独身を貫きます。

メアリは国家の決断としての政略結婚に強く反発し、従姉妹のダーンリ卿と結婚し、自分が死んだ後は彼にスコットランドの王位を譲ると宣言します。しかし、強い反発にあい、それを撤回します。そのことによって結果的に両者の間にすきま風が吹き始めます。両者の間には子供が生まれ(後のスコットランド国王ジェームズ6世。さらにエリザベス女王の死後、ジェームズ1世としてイングランド国王となる)ますが、やがて、ダーンリ卿の手によってメアリは監禁されます。それを助け出したのが若い貴族であったボズウェル伯でした。

1567年2月。不可解な事件が発生します。エディンバラの教会で謎の爆発が起き中庭でダーンリ卿の死体が発見されたのです。事件の首謀者はメアリとボズウェル伯。直接な証拠はありませんでしたが、その様に噂されました。しかも、結婚していたボズウェル伯が急いで離婚。メアリと再婚をしたのは世間には疑惑を肯定したようにしか映りませんでした。貴族たちの離反により、メアリは退位を余儀なくされ、ボズウェル伯は海外に逃亡後、投獄されてこの世を去ります。

その後、捲土重来を期して立ち上がったメアリでしたが敗れて海外への亡命の他に取る道はなくなります。行くべき道はかつて王妃として君臨したフランスでしょうか? 結局メアリの選択した道は南のイングランドへの亡命でした。かつて王位継承権を求めたこともある彼女が、エリザベス女王に庇護を求める……奇妙な構図ではありました。周りの者は皆反対します。しかし、監禁と戦争の繰り返しの生活はメアリを疲れ果てさせ、正常な判断力を奪っていました。フランスまで丈夫な船を手に入れ、長い航海をしなければならない。それに耐えることはもはや誇り高い女王にも出来なかったのかもしれません。

しかし、結局イングランドにたどり着いたメアリを待っていたのは更なる幽閉生活でした。エリザベス女王にとっても、亡命してきたメアリの扱いは困難でした。かつてイングランドの王位を要求したこともあり、例え本人にその意思がなかったとしてもカトリックの女王というだけで反エリザベス勢力によって担ぎ出されてしまう恐れがありました。事実、たびたびその様な陰謀への関与し1583年のスロッグモートン兄弟の陰謀ではスペイン大使メンドサも関与したとして国外に追放処分となります。1586年、バビントンの陰謀が発覚します。エリザベス女王の側近は最大の危険人物たるメアリ・ステュアートの処刑を進言します。裁判の結果は、極刑でした。1つの国の君主が1つの国の君主を裁く。エリザベス女王は、そのことに強いためらいを覚えますが1587年1月。もはやこれ以上伸ばせないと、執行書類にサインします。

1587年2月8日――スコットランド女王メアリ・ステュアートは44歳の生涯を終えます。エリザベス女王暗殺の陰謀をことごとく水際で食い止めてきたのは秘書長官ウォルシンガムを筆頭とする諜報機関でした。その強力な情報収集能力によって女王を守り抜いたのです。そして、後の無敵艦隊襲来においても、高度な情報収集によって、的確な対抗策が練られていたのでした。

スペイン国王フェリペ2世はイングランドを平和裏に、ハプスブルグ家の十八番だった姻戚関係を結びながら勢力を拡げていく手法によって、イングランドを手に入れる手段がなくなったことを知りました。もはや戦争による手段しか残されていなかったのです。

サンタ・クルス侯爵によるイングランド征服作戦

1582年から83年にかけてポルトガルの前王ドン・アントニオがフランス艦隊を率いてアゾレス諸島に現れ、スペイン艦隊と激突。スペイン艦隊はフランス艦隊を撃破します。この時のスペイン艦隊の総司令官がサンタ・クルス侯爵でした。レパントの海戦でも総司令官ではありませんでしたが大きな戦果を上げ、スペイン艦隊の代名詞ともいうべき人物でした。

とうとう武力によるイングランド征服を考え始めたフェリペ2世はアゾレス諸島から帰国したサンタ・クルス侯爵の進言を受けて、草案の作成を命じます。その結果、出てきた計画書にフェリペ2世は眼をむきます。スペイン海軍と併合したばかりのポルトガル海軍を足しても遥かに足りない約800隻の船舶と、約9万4千の乗組員。10か月分の食料と水。大国スペインであっても、この時代のいかな国でも、まず用意できないほどの莫大な金が必要でした。

フェリペ2世はこれを3分の1ほどに縮小し、陸兵はネーデルランド総督パルマ公指揮下の精鋭部隊を使うことを考え、1586年に計画をまとめます。

1587年中に出撃の予定でしたが先手を打ったのはイングランド側でした。

ドレークのカディス襲撃

『イングランドの防衛線は国境や英国海峡にはない。大陸側の港の背中にある』

現代においても英国の防衛の根幹となっているドレークの思想でした。すなわち、艦隊が大陸側にある間に叩く。艦隊が出撃しなければ、イングランドに脅威が迫ることはない。実に合理的な判断ではありましたが、同時代のイングランド政府、海軍の提督たちには、なかなか理解されませんでした。

また、この時代のイングランド海軍内には様々な確執が存在していました。伝統的規律を重んじる貴族軍人と、ドレークのような下層から這い上がってきた私掠船船長たち。さらに、それらの経験豊かな私掠船船長同士にも厳しい対立がありました。1585年にイングランド海軍の最高司令官に就任したトーマス・ハワード公爵の人柄やリーダーシップによってそれらの対立はかろうじて表面には出てきませんでした。祖国を守るという一事において、互いの反目には眼をつむり、一丸となりスペイン艦隊に挑む体勢が整ったのです。

ドレークが考案した先制攻撃にはエリザベス女王は最後まで乗り気ではありませんでした。エリザベス女王は最後まで戦争回避を考えていました。しかし、ようやく出された命令を受けて1587年4月、ドレークは出発します。続けてスペイン本国への攻撃は行わないように、という命令も出されますがドレークはその命令を受け取らずに出発しました。

当初の攻撃目標はリスボンでしたが守りが堅いと判断し、カディスへと向かいます。帆船28隻を引き連れたドレークは大胆にも湾内に侵入してきます。カディスの防衛隊も果敢に戦いますが、スペイン海軍の主力は手漕ぎのガレー船で、搭載している砲門の数も機動性も桁違いに劣っていました。カディス城塞に据えられた大砲も火を吹きますがことごとく当たりません。大砲の性能も砲手の技量も低かったのです。翌日、セビーリヤからメディナ・シドーニア公爵が兵を率いて救援に駆けつけ、かろうじてドレークの上陸は阻止されます。

大小30隻もの船舶に被害を与え、大量の物資を焼き払ったドレークはその後も2ヶ月ほどポルトガル沿岸を周航し、ポルトガル南西の岬を占領しスペインの計画を妨害し、リスボンを荒らし、アゾレス諸島で財宝を満載したポルトガルの武装商船を拿捕し何万ポンドもの戦利品を手に入れます。帰国したドレークをイングランドは歓喜で迎え入れ、スペインでは怒りの声が沸き起こりました。

ドレークはレパントの海戦に敗北したトルコのスルタンの言葉を借りて『スペイン王の髭を焼いた』と語りました。髭はしばらくすれば生えそろう。今回の戦果は決してスペインにとって致命傷ではないことを知っていたのです。

ドレークのカディス襲撃はスペインにとっても作戦計画の大きな変更を強いられる事件でした。スペイン艦隊の主力は手漕ぎのガレー船でしたがこれがイングランド艦隊の帆船相手には機動力や搭載できる砲門の数に決定的な差が出てしまうこと。同じ帆船同士でも大砲の性能によって決定的な差が出てしまうこと。地中海を舞台にスペイン最大の栄光となったレパントの海戦では地中海は波穏やかでガレー船の能力を最大限に生かすことができました。戦い方も、ガレー船同士で、敵船にぶつけ、乗り込み、斬りあいをする伝統的な戦法でした。大砲はあくまでも敵船の足を止める手段に他なりませんでした。これは新たな海戦の歴史の始まりであり、これまでのあらゆる海戦とは決定的に異なっていることを思い知らされたのです。その後の計画ではガレー船の数は大幅に減らされ、ありとあらゆる手段で大砲を集められました。中には、イングランドにさえ手を伸ばし大砲を集めようとしたのです。

司令官交代

準備は遅れましたが、しかし侵攻計画は着々と進んでいました。しかし、準備不足のまま冬を迎え1588年の春になるまで出撃は待つしかありませんでした。ところが1588年2月にフェリペ2世が最も信頼をおいていた最高司令官のサンタ・クルス侯爵が63歳で亡くなるという事態が起こってしまったのです。

後任に選ばれたのは24歳も年下のメディナ・シドーニア公爵。スペイン屈指の大貴族であり、ドレークのカディス襲撃で部隊を率いて救援に駆けつけた功績によるものでした。とはいえ陸軍出身で海軍の経験もなく、これまでさしたる戦闘においての実績もない人物の抜擢は国内を驚かせました。しかし、最も驚いたのはいきなりこのような大役が回ってきた公爵本人でした。メディナ・シドーニア公爵は、艦隊勤務の経験がないことや、これまでのアルマダ計画の進行についての理解が乏しいこと、あるいは自らは船酔いが酷く艦隊勤務は勤まらないことなどを理由としてあげ、辞退を申し出ました。もちろん辞退は受理されませんでした。

結果としてメディナ・シドーニア公本人にとっても、その後の人生に、不名誉な汚点が残ることとなりました。もちろん仮にサンタ・クルス侯爵が生きてアルマダを指揮していたら敵海軍を蹴散らし、イングランドを制圧していたとは言えません。成功の確率は相当低かったでしょう。アルマダの海戦は、それまでの海戦が主に沿岸部を舞台としていたものと違い、外洋における初めての大規模な海戦でした。そして、世界の中心が地中海から大西洋へと移行していく過程で必然的に起きた……全く新しい海戦の形だったのです。 

メディナ・シドーニア公はこの大艦隊に『もっとも幸福なる艦隊』と名付けました。あるいは、単純に『大艦隊』と呼称される程度なのだそうです。無敵艦隊とはイングランド側が当時最大の大国であったスペインがその総力を以って投入してきた大艦隊への皮肉と賞賛の意味を込めて呼んだ名前でした。

そしていよいよ海戦の幕が開きます――。

戦闘の経過へ




【参考書籍】