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歴史小話


アルマダの海戦〜1588年8月 戦闘の経過〜



16世紀の終わり。当時の大国スペインは、新興国であったイングランドを制圧し支配下に置くために、総力を結集した無敵艦隊を送ります。イングランド海軍は総司令官、トーマス・ハワードに率いられ、ドーヴァー海峡で無敵艦隊を迎え撃ちます。この海戦は、西洋史の舞台が地中海から大西洋へ移る最初の海戦でした。


戦闘の経過

注) 1588年当時はイングランドはユリウス暦を、スペインはグレゴリオ暦を使用していました。この暦では約10日程度、グレゴリオ暦の方が早いのですが、イングランドのほうが詳細な資料が残されているため、多くの著作でユリウス暦が使用されています。イングランドがグレゴリオ暦を使用するようになったのは約150年後で、そのため、この歴史的海戦の日付は本来の8月の半ばから7月末となってしまいました。それだけ時間が違えば海流の流れなど大きな変化が出てしまいます。が、管理人は別にそういった研究者ではありませんので、そのままユリウス暦で表記します。

スペイン艦隊 出航!

スペイン艦隊がリスボンを出発したのは1588年5月31日のことでした。形も装備も違う約130隻の大艦隊。用意された兵士は1万9千。さらにオランダ総督パルマ公の率いる精鋭軍がカレー沖で合流する予定でした。しかし、既に、アルマダの悲劇は始まっていました。イベリア半島の沿岸を北上し、合流地点へと向かう途中――それ以前の大西洋へと至る前から――悪天候に見舞われ、さらに、樽に詰められた水が緑色に変色し、異臭を放つようになります。船内では赤痢で命を落とす船員が続出します。これは、先のドレークによるカディス襲撃によって貯蔵用の樽も燃やされ、大急ぎで作ったそれは、本来使われるべき、乾いた木材ではなく、生木を使った物になってしまったのでした。結果、4ヶ月もつはずの水は1ヶ月で傷んでしまったのでした。

6月半ばにラ・コルーニアで水と食料と船員の補充を行い、病兵はここで下船させられます。なんだかんだで約1ヶ月以上逗留し、7月半ばに再出航します。この間、メディナ・シドーニア公は艦隊の窮状を訴え作戦の中止を進言しますが、当然認められることはありませんでした。

7月19日。ついにリザード岬が見えました。シドーニア公は教皇より与えられた大旗を掲げます。カトリック教国スペインが邪宗の国たるイングランドを征討する。これは宗教戦争でした。

イングランド艦隊 海戦に際して

スペイン艦隊を迎え撃つべく待ち構えた――ドレークはさっさと先制攻撃をかけたかったはずでしたし、イングランドの主戦派の面々もそうだったはずでした――イングランド艦隊の最大の敵はある意味、慎重に事を進めようとするエリザベス女王でした。事ここに至っても戦争回避の手段を探り、さらに艦隊に充分な予算を出しませんでした。主計官たちの杜撰な仕事によって艦隊には充分な食料が用意されませんでした。

あらゆる困難を振り払ってラ・コルーニアのスペイン艦隊に1撃加えんと帆を揚げたイングランド艦隊でしたが、予定は大きく遅れ7月7日となっていました。さらに風向きがスペイン艦隊に有利な方向に変化します。スペイン艦隊に背後を取られるのを畏れ、また、これ以上航海に時間をかけられる食料のゆとりがなくなったイングランド艦隊はプリマス港へと引き返します。ところが風向きが悪くなりイングランド艦隊は身動きが取れなくなってしまいます。

開戦

スペイン艦隊の提督たちはイングランド海軍の前線基地たるプリマス港を攻撃することを総司令官シドーニア公に進言します。敵艦隊の動向についてシドーニア公は漠然としか掴んでおらず、守りの堅い港への攻撃をためらいます。さらに、イングランド本土への攻撃はカレー沖でパルマ公の部隊と合流してからというフェリペ2世の命令を忠実に守り、北上を続けます。

もしもこの時、シドーニア公が決断していたら、イングランド艦隊は最悪の形での開戦を余儀なくされました。そして、スペイン艦隊は最大の好機を逃したのです。 

イングランドとスペインの違いは、イングランド艦隊が作戦の全てを現場の総司令官ハワードや提督ドレークに委ねられていたのに対し、スペイン艦隊にはフェリペ2世からの指示が逐一細かく示されシドーニア公を含め現場の裁量が小さくなっていました。フェリペ2世の指示は概ね間違ってはいませんでしたが、艦隊内には萎縮した空気が流れていました。

ところが、後に分かったことでしたが頼りにしていたパルマ公の部隊はオランダとイングランドの部隊に見張られて動くことができませんでした。リアルタイムで情報が交換できる現代と違い、海上を北上してくる艦隊と、地上を移動し海上で部隊を合流させることは至難の業でした。双方がピタリと到着のタイミングを合わせなければ危険にさらされることになります。名将のパルマ公にしてみればこのような杜撰な計画に付き合う気はなく、戦う気もありませんでした。

7月19日から27日

30隻を率いてドーヴァー海峡を警戒していたシーモア提督の部隊がついにリザード岬沖でスペイン艦隊の影を捉えます。それを受けてプリマス港内で待機していたイングランドの主力部隊が出撃します。そして、7月21日に両艦隊が互いを視認できるまでに接近します。

この時、スペイン艦隊が敷いたのが有名な『3日月形の陣形』です。それが戦闘能力の低い輸送船が多いスペイン艦隊のとった陣形でした。敵艦隊が中央を攻めてくれば1万1千メートルの間隔をおいた艦隊の両翼が包囲の輪を縮め、輪の中で行動を失った敵艦隊に接舷し斬り込むという、とても防御に優れた陣形でした。このまま、カレー沖のパルマ港との合流地点まで北上しようという策でした。

メディナ・シドーニア公はイングランド艦隊がびっくりするような見事な三日月型の陣形を敷きました。それはあたかも水上の城砦がゆっくりと移動していくような光景でした。

イングランド艦隊も、容易に攻撃はできませんでした。ドレークは大砲の威力でスペイン艦隊を壊滅させると公言していましたが、イングランド艦隊のカルヴァリン砲は射程は長く、軽い砲弾を使って射撃速度も速かったのですが戦艦の装甲を破るほどの威力はありませんでした。ドレークは至近距離まで接近し、大砲の威力を最大限発揮するチャンスを探っていましたが、その時が来るまでスペイン艦隊を追いながら脱落してくる船舶を攻撃するしかありませんでした。

7月27日にスペイン艦隊はカレー沖に到着しました。

そこに至る間に指揮官のオケンドが座乗した『薔薇のサンタ・マリア』という船が爆発事故を起こして航行不可能な状態になります。

また、ペドロ・デ・バルデスの指揮する『ロザリオの聖母』というスペイン艦隊でも最良の船が別の船と接触事故を起こし、船足が落ちてきます。夜間であり、海の状況も悪かったため、曳航することも、船荷を持ち出すこともできず、ペドロ・デ・バルデスと『ロザリオの聖母』は置き去りにされる格好になります。カレー沖での合流を至上命題とするシドーニア公にとって、いかに有能な指揮官・いかに良い戦艦とはいえ見捨てなければなりませんでした。ペドロ・デ・バルデスは艦隊の参謀本部長フロレス・デ・バルデスの従兄弟でした。もともと、激しく意見の対立を繰り返していた両者でしたので、この1件はフロレス・デ・バルデスにいらぬ疑惑を向けられることになります。結局、『ロザリオの聖母』は拿捕され、ペドロ・デ・バルデスはイングランドで18ヶ月の虜囚生活を送ることになります。そして、フロレス・デ・バルデスはこの一件を激しく糾弾され、投獄され、敗戦のスケープゴードとされてしまいます。

ポートランド・ビル沖と、ワイト島沖でも小競り合いが起こります。これはフェリペ2世からの命令にはありませんでした。しかし、スペイン艦隊の優秀な提督たちはワイト島を占領することができれば長期的にイングランドに圧力をかけられる地理的な要所であることは重々理解していましたし、もちろんイングランド艦隊の提督たちも理解していました。このときも、シドーニア公の消極的な姿勢がここでの戦闘を短時間に留め、艦隊は北上を続けます。シドーニア公にとって、フェリペ2世からの命令は絶対で、その命令を果たすためには1刻も早くカレー沖にたどり着かなければならなかったのです。

7月27日

スペイン艦隊はカレー沖で投錨します。それはとても危険な場所でした。イングランド艦隊はスペイン艦隊から西に1.6キロ離れた地点に投錨します。シドーニア公はここで合流するためパルマ公へと出していた使者が帰ってくるのを待つことにしました。。

イングランド艦隊のドレーク提督はここまでの小競り合いでスペイン艦隊が負った損傷は軽微で、この辺りで大きな打撃を与えておく必要があると考えていました。

7月28日

パルマ公の元から帰ってきた使者は、パルマ公の部隊の準備が遅れ、合流には2週間以上かかるという回答を、シドーニア公のところに持ち帰ります。このような所にそんな長い時間いることはできません。シドーニア公は錨を上げるよう指示を出します。スペイン艦隊は提督から下仕官、兵士まで激しく動揺します。

真夜中過ぎ、イングランド艦隊は前々から検討していた『火船戦術』を決行にします。小船やいかだに燃えやすいものを乗せて火をつけ、敵の艦船にぶつけるこの作戦は、木造で綱にも帆にも大量のタールを塗りつけていたこの時代の船にはとても有効な戦術でした。

シドーニア公も敵が火船戦術出来ることは予想して、艦隊の周囲に小船やいかだを浮かべていましたが、今回使用されたのは、9十トンから2百トンの大規模な船が8隻。燃えやすいものを大量に詰め込み、大砲は熱してくれば砲弾が飛び出すように細工されていました。

時間は真夜中過ぎ。明々と燃え盛りながら接近してくる火船にスペイン艦隊はパニックに陥ります。錨を上げることもできずに慌てて舫い綱を切り捨てた船も多数ありました。

イングランドが放った火船は、四散する艦隊の中を炎を上げ砲弾を放ちながら通り過ぎていきます。もはや、あの見事な『三日月形陣形』は見る影もありませんでした。

シドーニア公は、冷静でした。火船が通り過ぎると、錨を下し、号砲を鳴らして各隊を再結集させようとします。しかし、その命令に従うことができる船はほとんどありませんでした。

指揮官の1人、ウーゴ・デ・モンガーダの乗ったガレアス艦、『サン・ロレッツア号』も逃げまどう船の1隻でした。大砲が暴発し、舫い綱が梶に絡まり方向を失った船は、フランスへ逃れようとカレーへ向けて進みますが、浅瀬へ乗り上げて座礁します。

7月29日

夜が明けてイングランド艦隊総司令官トーマス・ハワードは、座礁した『サン・ロレッツア号』を発見します。ハワードは迷わず船首を向けましたが、これは大きな誤りでした。彼がやるべきは陣形のバラバラになった敵艦隊を追いつめることでした。ドレークやイングランド艦隊の提督たちは迷わずにシドーニアを追います。ハワードは、この海戦を中世以来続く騎士道精神に基づいた伝統的な戦闘であると考えていました。目の前の獲物を看過することはできなかったのです。

ハワードの旗艦アーク・ロイヤル号から小船に乗った兵士がサン・ロレッツア号に接近します。サン・ロレッツア号の兵士もマスケット銃で応戦しますが、もはや戦意は尽きかけていました。ウーゴ・デ・モンガーダは前線に立って兵士たちを鼓舞し続けますが約30分の銃撃戦の末、モンガーダは銃弾を頭に受けて即死します。そのまま小船へと転落した指揮官は陸地まで運ばれました。指揮官を失った兵士や乗員・奴隷たちは船を捨ててフランス領カレーへと逃れました。

7月29日 グラヴリーヌ沖海戦

散り散りになった艦船もシドーニアの下に集まってきました。しかし、所在不明となった船も多くせいぜい50隻ほどでした。それに、130隻のイングランド艦隊が襲いかかります。もはや、両者に陣形などありませんでした。

午前9時ごろから午後6時ごろまで戦闘は続きました。獅子奮迅の戦いを見せるスペイン艦隊の船の合間を縫ってイングランドの艦船が砲撃をぶつけると接舷しようとするスペイン船からあっという間に離れていきます。船足の速さや操船技術の差はいかんともしがたいものでした。

それはあたかも陸上におけるマスケット銃の撃ち合いのような戦闘でした。しかし、この時代の大砲はまだ大砲のみで勝敗を決するという所までなっていませんでした。スペイン艦隊が用意したのは砲弾が重く射程が短く発射速度は遅いが、破壊力のあるものでした。反対にイングランドが用意したのは砲弾が軽く射程が長く発射速度は速いが、破壊力は低いものでした。

初めてイングランド艦隊は敵の懐に飛び込みました。これこそ、スペイン艦隊が望んでいた状況でしたが、もはや敵艦に乗り込むために足を止める三日月形の陣形は失われていました。

スペイン艦隊の放った砲弾は約12万発。しかし、イングランドの受けた被害は軽微でした。スペイン艦隊の受けた被害は死者600、負傷者800。浮いているのがやっとの船も沢山ありました。オランダへ逃れ拿捕された船や兵士や船員も大勢いました。

しかし、これから起きる悲劇はこの戦闘の被害を遥かに上回るものでした。

7月30日以降

29日の夜から海は荒れ、もはや流されるに任せるしかなくなったスペイン艦隊はただ岩礁を避けるのを必死になりながら流されていきます。その後を、109隻のイングランド艦隊が追いかけてきました。しかも、風向きは大陸に向けて吹いており、暗礁に乗り上げたが最期、一定の距離を置いて攻撃を仕掛けるでもなく不気味についてくるイングランド艦隊か、オランダの海乞食(オランダの海賊)の餌食になるのは必至でした。

29日の戦闘で心身共に打ちのめされていたスペインの兵士・船員たちはなぜイングランドの艦隊が攻めてこないのか訝しく感じながら、そうなったときのことを思い、竦みあがりました。イングランドが攻撃してこなかった理由は、もはや船倉に砲弾がなかったからでした。スペイン艦隊に残った最後の力をぶつけるのは、彼らが座礁したその時を置いて他にありませんでした。

シドーニア公が全艦隊座礁、そして全滅を覚悟したとき、風向きが変わり、スペイン艦隊は北海に抜けることができました。

会議が開かれ風向きが変わればドーヴァー海峡に戻り、変わらなければ北海を抜けプリテン島の北端を回りスペインに戻るということが決まりました。しかしイングランド艦隊が待ち構えているドーヴァー海峡に戻れるはずもなく、また、この時期に風向きが変わるはずがないことも分かっていました。ただ、ひたすら北上を続ける他、ありませんでした。

8月2日――イングランド艦隊はもはやスペイン艦隊が戻ってくる可能性は低いと判断し、引き上げたのです。

戦闘終結のイングランド

動員解除がなされた後、エリザベス女王は再びドレーク提督らにとって頭の痛い存在になります。イングランド艦隊は戦闘によってスペイン艦隊に与えた影響がどの程度かわかっていませんでした。女王は、艦隊業務についての報告を徹底的に出させ、しかし、財布の紐はきっちり締め付けて動員された兵士たちの多くは充分な給与も受け取らずに田舎に帰るしかないほどでした。

もしも女王が充分な食料と砲弾を用意してくれたなら、29日の戦闘後、追撃をかけることができたかもしれない。誰も公然とは口にしませんでしたが、そのことに失望を覚えていました。

とはいえ、エリザベス女王とイングランド王国はその成立以来最大の危機を乗り越えたのでした。イングランド国内では戦勝記念の祝賀が盛大に開かれました。

壊滅した無敵艦隊

北上しプリテン島を回って帰国する。それは、スペイン艦隊にとって初めての経験でした。充分に地理や海流についての理解がなく、それゆえ多くの悲劇が生まれました。

兵員の食料、水は半分ほどに減らされ、水を飲む口を減らすため、上陸した後に備えて用意された馬やロバが海に放り込まれました。

やがて、シドーニア公の旗艦から離れる船が続出し、各艦・各隊がその裁量で帰国するしかなくなります。力尽きて、スコットランドやアイルランドに逃れる船も続出しますが、それらの多くは哀れな最期をたどりました。現地の住民や配備されたイングランド軍によって地位が高く充分な身代金が取れそうな貴族以外は殺されました。

やがて9月半ばにサンタンデールによろめきながら最初の船が到着します。カンタブリア海の諸港に幽霊船のようになりながら続々と帰還します。

最終的に130隻の船の内、かろうじてスペインに帰りついたのは約半数。数万の兵士、船員、奴隷などのうち死者は3分の1という有様でした。

フェリペ2世は死者、行方不明者についてのリストを作るように命じ、生き残った者には充分な治療と食料、休息を与えるように命じます。メディナ・シドーニア公にはねぎらいの言葉をかけ、敗戦の責を問うことはありませんでした。フェリペ2世は(投獄された総参謀フロレス・デ・バルデス以外の)誰に対しても責を問いませんでした。誰がその責を取るべきか重々理解していたのでしょう。

しかし、メディナ・シドーニア公に対しての民衆の無言の非難は厳しく、セビーリアへ帰るシドーニア公に罵声が飛び、石つぶてが飛んだ村もありました。

その後――

フェリペ2世はイングランド侵攻を諦めたわけではなくその後も幾度となく侵攻作戦を用意しますがことごとく悪天候などに遮られ失敗します。イングランドを支配下に置く念願が叶うことなく1598年71歳で死去し、戦争は後を継いだフェリペ3世によって引き継がれます。

フェリペ2世の統治時代はスペインの最大の繁栄のときであると同時に、没落していく時代でもありました。もともと、莫大な借金を抱えて後を引きついたフェリペ王のもとに入ってくる金や銀は国庫を素通りし、借金の返済と貴族たちの華やかな生活、政務の中心地として建造されたエル・エスコリアル宮の建設費などに充てられ国民がその恩恵を受けることはありませんでした。そして何より宗教改革のうねりの中、カトリックの擁護者を自負する王は、フランスのユグノー戦争への介入、オランダ独立戦争、アルマダの海戦と沢山の国際紛争に関わり、財政は破綻しました。この過程で有力な銀行家であったフッガー家は没落に追い込まれます。それは現代で言えば主権国家の債務不履行に陥った最初の事例でした。

フェリペ3世は1603年にエリザベス女王が逝去するとイングランドと和平を結びます。オランダの反乱軍とも1609年に12年間の休戦協定を結びました。オランダは事実上の独立が成されます。

もはや、スペインに戦争を続けるだけの力は残っていなかったのです。




【参考書籍】