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ドイツ三十年戦争@〜神聖ローマ帝国〜



神聖ローマ帝国とは962年のオットー1世の戴冠によて成立した中世ドイツの呼び名です。ザクセン家・フランケン家・シュタウフェン家・ハプスブルグ家と帝位は移りました。ドイツ三十年戦争当時はハプスブルグ家が帝位を持っていましたが、宗教対立の中で、戦争を終結させる落とし所を見出すことができず、戦争が終わった時には神聖ローマ帝国の名称と皇帝位こそ残ったものの、300の諸侯がそれぞれ独立国のように乱立する国家となっていました。しかし、1806年にナポレオンによって解体されるまで、形式的には残っていました。


ドイツ三十年戦争の時代背景

神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国とは現在のドイツのことであり、その勃興は9世紀のカール大帝の時代まで遡ります。さらに遡り、5世紀後半に西ローマ帝国が滅亡しました。繁栄を続ける東ローマ帝国とは対照的に、旧西ローマ帝国の所領……つまり、西欧は乱れ、混迷の中世をさまよいます。その後、現在のフランスを中心にフランク族による、フランク王国が起こります。8世紀半ばに、王権がカロリング家に移ります。カロリング家の当主ピピンは、王家として確固たる権威を手に入れるため、ローマ教会に接近していきます。ローマ教会も、有力な擁護者の存在を必要としていました。さらにその息子、カールの時代になると、カールは転戦を繰り返し、かつての西ローマ帝国の領地の大部分を手に入れます。彼が有名なカール大帝です。


このころ、ローマ教皇レオ三世の権力基盤は決して強固なものではありませんでした。ローマ貴族の抵抗に手を焼き、教会は分裂寸前でした。そのため、力を持つ味方が必要で、それにふさわしい人物はカール大帝以外にいませんでした。カールを味方につけるために彼に、西ローマ帝国皇帝の称号を与えます。幻の西ローマ帝国の復活でした。しかし、カール大帝の死後、フランク王国は三つに分裂し、西ローマ帝国という幻は霧散してしまいます。


その後、十世紀半ばに東フランク王国のオットー1世によってドイツが統一されます。ローマ教皇は今度はオットー1世を味方につけるため神聖ローマ帝国皇帝の冠を用意しました。後世のドイツ人は、この神聖ローマ帝国を「第一帝国」、と呼びました。1806年まで神聖ローマ帝国は存在し、その後、1871年に、プロイセン王国によってドイツは統一され、誕生したドイツ帝国を「第二帝国」と呼称しました。そしてヒトラーは、「第三帝国」を自称したのでした。


とにかく、その神聖ローマ帝国の皇帝位はその後、一大勢力を誇ることになるハプスブルク家が、代々受け継ぐことになったのですが、それは、13世紀になってからのことでした。


ハプスブルク家

ハプスブルク家の祖先が歴史に姿を現すのは11世紀頃とされます。ライン川上流域。アルプス山中から流れるアーレ川、ロイス川。チューリヒ湖から流れるリマト川がライン川と合流する付近に、ハプスブルク城なる、城郭が存在します。この城郭を基点に地場を固め、力を蓄えていました。


河川による運輸、交通が現代より、遥かに重要だった時代。また、ドイツからイタリアへ抜ける峠の街道筋にも当たる交通の要所でした。十字軍遠征により没落した貴族や領主などを吸収し、次第に勢力を強めていきます。また、神聖ローマ皇帝にも忠勤を励み、武勲を立て、結びつきを強めていきます。 


1254年にコンラッド1世の死去によって、神聖ローマ帝国には皇帝不在の時期が起こります。それを、大空位時代と言います。神聖ローマ帝国皇帝位は3人の聖職者と、4人の君主の投票によって決められていました。7人は選帝侯と呼ばれ、大きな権限を持っていました。原則として世襲制で、1806年の帝国解体まで変わりませんでした。自分の利益にかなう人物を選ぼうと駆け引きに終始し、約20年もの間、皇帝が選出されませんでした。さすがに見かねたローマ教皇が、「諸侯が選ばぬなら、余が選ぶ」と通告したため、選帝侯が白羽の矢を立てたのが、まだ弱小豪族だったハプスブルク家のルドルフ1世でした。資金も所領もなく、君主の器でもない。そう思われていたルドルフ1世なら、選帝侯たちには都合のいい皇帝だったのです。さすがにルドルフ1世も寝耳に水といった感じで受け止めて、皇帝位選出の報せを選帝侯の使者から聞くと、「人を馬鹿にするにも程がある。その様な戯言を言うものではない」と返したと伝えられます。


それに大激怒したのは、帝国の実力者だったボヘミア王オタカル2世でした。大本命と目されていたオタカル2世でしたが、大きな勢力を誇り、野心家であったオタカル2世に皇帝位を渡すことに選帝侯は危険を感じたのでした。その、オタカル2世の怒りの矛先は、自分を選ばなかった選帝侯ではなく、棚からぼた餅で皇帝の冠を手に入れたルドルフ1世でした。


選帝侯もオタカル2世も、ルドルフを過小評価していました。ルドルフ1世は彼らの目論見と違って、頭の回転が速く、政治手腕に長け、忍耐を知り、機が熟したと見るや精力的に行動する人物でした。さらに、人望もありました。戦上手であることも後に証明されます。そして何より、ルドルフの最たる長所は敬虔なクリスチャンであることでした。


とにかく、神聖ローマ皇帝に選出されたルドルフ1世に対し、オタカル2世は公然と反発します。ルドルフ1世の招聘の命令も無視し、臣従を徹底して拒みます。ルドルフ1世にとっても、オタカル2世は早々に排除しなければならない相手でした。臣従を拒んだオタカル2世は、皇帝に格好の口実を与えたのでした。ルドルフ1世はオタカル2世征討の兵を挙げます。自分の利益を追うことにばかり血眼になる選帝侯たちは、高みの見物を決め込みます。うまく共倒れしたら、その領土をいかに掠め取ってやろうかと舌なめずりしながら。


1278年。ウィーン北東、マンヒフェルトで両軍はぶつかります。中世の西欧の軍隊は騎兵以外の兵科はほとんど失われていました。アレクサンドロスのマケドニア軍や、ハンニバルのカルタゴ軍。ローマのレギオンのような、現代戦術の祖とも言うべき軍隊は失われ、ひたすら鎧に身を固めた 重騎兵同士のぶつかり合いに終始していたのです。そこに、ルドルフ2世は"伏兵"という奇策を用います。数時間の激闘の後、オタカル2世の軍隊は総崩れとなり、オタカル2世は命を落とします。ボスミヤ王の称号は残されたものの、ハプスブルク家はオーストリアを手に入れることができたのでした。


しかし、ルドルフ1世の子、アルプレヒトは切れ者でしたが野心家で、ハプスブルク家の領土拡張に余念がありませんでした。選帝侯たちは危険人物として警戒していました。一旦はアルプレヒトが皇帝位を受けますが、1307年に暗殺され、その後、130年もの間、ハプスブルク家が皇帝位を戴冠することはありませんでした。


ドイツ人傭兵 ランクネヒト

ハプスブルグ家の最盛期はカール5世が統治する時代でした。祖父マクシミリアンは、王としての器量に恵まれ1508年に26歳で神聖ローマ帝国皇帝位を継いだ人物でした。それまで、神聖ローマ帝国の皇帝位はローマの教皇より戴冠させられていましたが、マクシミリアン1世は、自ら皇帝を名乗り、ローマの教皇よりの戴冠を受けませんでした。これ以降、神聖ローマ帝国の皇帝位は、ローマ教皇よりの戴冠を受けることはなくなります。

しかし、そのマクシミリアン1世をもってしても分裂状態の神聖ローマ帝国を統一することはできませんでした。早い段階で王権を確立することができ、安定した統治を行うことができたイギリスやフランスと比べ、ドイツやイタリアは長く分裂状態が続き、そのことが後の両国の歴史にも暗い影を落とします。


マクシミリアン1世は、時に『中世最後の騎士』と表現されます。しかし、マクシミリアン1世は、騎士の時代の終わりを痛感し、軍制を大きく転換しようとした人物でした。しかし、その目論見の全てがうまく行ったとはいえませんでした。ブルゴーニュ戦争の際、マクシミリアン皇帝は戦力の補充のために、南ドイツから大勢の傭兵をかき集め、彼らにスイス傭兵部隊風の長槍を持たせ、戦わせます。彼らを率いたマクシミリアン1世は、フランス軍を破ります。この時の、南ドイツの傭兵部隊が、悪名高いランクネヒトの前身であるとされます。


彼らは傭兵に他ならず、国家や皇帝の兵ではありませんでした。金銭のみで繋がった関係であり、傭兵隊長たちは戦争企業家として、金儲けに血眼になります。そのため、時としてあまりに残虐な殺戮や略奪が行われます。ドイツ三十年戦争に投入された兵士も、ランクネヒトを中心とした傭兵たちであり、かれらの殺戮・略奪行為のために、ドイツの人口は3分の1にまで減少したと言われます。


さらに、マクシミリアン1世の最大の功績は、その結婚政策でした。様々な条件のもと、自身の子らを良家と縁を結ばせます。運命の女神はハプスブルグ家に微笑み、スペイン、ハンガリー、ボヘミアといった国々も、労せずしてハプスブルグ家の手元に転がり込んできました。


カール5世の皇帝位戴冠

1519年にマクシミリアン1世が逝去したことで、若干19歳のカール5世は、南米への領土を含めて広大な領土を手に入れることになります。しかし、それはただ単に広大な領地を相続したというだけに過ぎませんでした。神聖ローマ帝国は、もはやドイツとその他わずかな土地に限定された上に、分裂状態。スペインは国土回復運動の余波で、国内経済はがたがた。1519年当時は、南米の植民地も期待したほどの金銀が持ち込まれていたわけではありません。大陸から、大量の富が流れ込んでくるようになるのには、もう30年ほど待たなければなりません。神聖ローマ帝国皇帝のマクシミリアン1世が死去したことで、次期皇帝位を誰にするのかが話題に上ります。


本命は2人。1人はカール五世。そして、フランス王・フランソワ1世。当時のフランスでは、ハプスブルグ家と違い、着々と国内基盤の整備が進められ、王権が強化されていました。王の元に入ってくる金は膨大でした。ハプスブルグ家、最大のライバルが、フランス王でした。


しかし、なぜ、フランス王が、神聖ローマ帝国の皇帝位を欲しがったのか……。もちろん、ハプスブルグ家が神聖ローマ帝国に君臨することで更なる領土を手に入れることを嫌ったこともありました。そして、フランス王は、フランス王であっては決して手に入れることの出来ない称号……"皇帝"の称号を何よりも欲しがったのです。


1519年の、皇帝選挙は、両陣営が選帝侯買収に動き、実弾飛び交う激しいものになります。フランス王・フランソワ1世の出した金は莫大なものでしたが、カール五世はそれに対抗するため、フッガー家やヴェルザー家といった豪商の国家の利権を担保に莫大な金を借り入れ、同じく実弾をばら撒きます。


カール五世の提示した金の方が大きかったのか、最後は六人の皇帝位を輩出していたハプスブルグ家の血筋が効いたのか、とにかく最後は七人の選帝侯が全員カール五世を支持し、神聖ローマ帝国皇帝になりました。


もちろん、フランスとの対立は、それ以降さらに激しいものとなり、カール五世とフランソワ1世はの対立は、武力衝突に発展し、以降幾度となくぶつかります。その過程では、史上悪名高い"ローマ略奪"という事態まで引き起こされます。


カール五世の敵はフランスのみではありませんでした。オスマン・トルコともたびたび戦い、ドイツ諸侯の中にも、皇帝に従わない者がおり、幾度となく征討の兵を挙げました。カール五世の生涯は戦いの連続で、領地中を駆けずり回りました。その最大の敵こそ、16世紀初頭から台頭していた、宗教改革のうねりだったのです。


カトリックの守護者

宗教改革とは腐敗したカトリック教会に対し、マルティヌス・ルターが免罪符に関する95カ条の提題を突きつけたのが発端でした。もともと、ローマ教会は、キリストの名の下に、免罪符という搾取を繰り返していました。罪を清めるためと称して、高額で免罪符を買わせていたのですから、現代の一部カルト教団がやっていることと変わらないのですが、それを、当時最大の宗教団体が行っていたのです。


ルターが掲げた宗教改革は、神聖ローマ帝国を震撼させます。その炎はあっという間に燃え広がり、カトリック教会はルターを破門に、カール五世は神聖ローマ帝国を追放しますが、宗教改革に賛同する動きは、帝国騎士のは反乱や、ドイツ農民戦争を引き起こしました。それらは諸侯の力により制圧されましたが、宗教改革に賛同する諸侯は確実に存在していました。


1529年、シュパイアー帝国議会でルターを支持する5人の帝国諸侯と14の帝国都市は異端根絶の激しく抵抗します。翌年、都市シュマルカルデンで軍事同盟が結ばれます。シュマルカルデン同盟で繋がれた、プロテスタント諸侯は皇帝に反旗を翻し、公然と対立したのです。カトリックと、プロテスタントの争いは、政治的側面を強く持つようになります。


カール五世の、神聖ローマ帝国掌握の最大の障壁は、このシュマルカルデン同盟でした。年々、同盟の諸侯は増え、無視できないほどの勢力になります。カール五世は、これ以上見過ごすことは出来ないと、武力による征討を決意します。


1546年の夏から翌年の春にかけて、カール五世は同盟軍を散々に蹴散らし、ミュールベルグの戦いでは、同盟の中心人物だったザクセン選帝侯、ヨーハン・フリードリッヒを捕獲し、同盟軍は総崩れになります。さらに、その後の戦いでは同じく中心人物の一人だったヘッセン方伯を捕獲。プロテスタントの息の根を止めたかに見えました。


翌年の帝国議会では、カール五世がその軍事力を背景に、カトリックに都合の良い暫定的措置としての"仮協定"を結びます。ルター派からすれば、到底受け入れられるものではありませんでしたが、うかつに皇帝に反対することも出来ず、やむなく承認せざるを得ませんでした。この時、神聖ローマ帝国皇帝の権威は最高潮に達していました。しかし、プロテスタントの牙城マクデブルグ市だけが、この仮協定を断固拒否し交戦します。カール五世は、これを破格の待遇を与え信頼を置いていたザクセン公モーリッツに包囲させます。


この人物は、かつてのザクセン選帝侯の分家の当主で、ザクセン選帝侯からは従兄弟にあたり、ヘッセン方伯の娘婿という人物。そして、本人自身も、プロテスタント諸侯の一人でしたが、カール五世のザクセン選帝侯の地位を与えるという約定に乗り、シュマルカルデン同盟を裏切り、同盟軍を大敗に陥れた人物でした。しかし、モーリッツは、カール五世の敗者への目に余る仕打ちや、独裁体制を敷こうとする姿勢を嫌い、叛意を覚えます。マグデブルグ市と裏取引したモーリッツはさらにフランス王アンリ二世とも通じ、アウクスブルグでカール五世を急襲します。カール五世はインスブルックに逃亡します。


皇帝の弟であるフェルディナントが仲裁に入り、皇帝の専横を止めさせるための挙兵であったため、モーリッツもパッサウで協定を結び、モーリッツの反逆は終わります。この一件で皇帝の権威は失墜しました。失意の皇帝は、第一線を退き、その後のプロテスタント陣営との折衝は、フェルディナントが行うようになります。


1555年のアウクスブルグの和議によって、カトリックとプロテスタントは同権と認められ、いずれを信仰するかはそれぞれの諸侯に委ねられることが決められます。それは、カール五世、ひいてはハプスブルグ家の望む、カトリックへの宗教統一が不可能になったことを意味していました。


スペイン系とオーストリア系

1558年に、カール五世は他界します。皇帝位は、そのころ既にフェルディナントが継いでいました。スペイン王には息子のフェリペに譲り、ハプスブルグ家は二派に分裂します。あまりにも、広大な領土を統治するための施策でした。ところで、皇帝位はどうするのか決まっていませんでした。兄弟は協議の末、スペイン系とオーストリア系で交互に戴冠することを決めますが、それは結局護られませんでした。その後、スペイン系に皇帝位が回ってくることはなく、オーストリア系が継ぐことになるのです。





【参考書籍】