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歴史小話


ドイツ三十年戦争A〜ボヘミア反乱〜



16世紀初頭に巻き起こった宗教改革の波はカトリックの擁護者を自認するハプスブルグ家の足元にも及びます。神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位はオーストリア系ハプスブルグ家が継いでおりましたが、3百もの小国、公国が乱立し、権力闘争が繰り広げられていました。皇帝位はあってないようなものでした。帝国内のプロテスタント勢力の諸侯はユニオンという軍事同盟を、それに対してカトリック勢力の諸侯はリーグという同盟を組んでこれに対抗します。

ボスミヤで起こった戦火は、その後の戦後処理も含めて、三十年にも渡る長い長い宗教戦争の始まりでした。


ドイツ三十年戦争勃発


カトリックによる反宗教改革

世界史の教科書ではアウクスブルグの和議によって、宗教改革は治まったような印象を受けます。しかし、まだ、95カ条の提題から40年ほどしかたっておらず、神聖ローマ帝国におけるカトリックとプロテスタントの争いはこれからが本番でした。


1583年にプロテスタントに改宗したケルン大司教がカトリックにより追放され、この出来事は他の司教区にも影響を及ぼします。さらに、フェルディナント大公、後のフェルディナント二世により、各地で残忍な異端根絶やしが始まります。


そのような動きに対し、1606年、1609年にハンガリーとボヘミアに信教の自由を認める勅書が時の皇帝ルドルフ二世から出されます。その弱腰とも見える皇帝の姿勢に一族からも非難の声が上がります。このことがきっかけで、有名なハプスブルグの兄弟喧嘩が起こります。弟のマチアスは、ルドルフ皇帝から実権を奪います。


1608年にプロテスタントのプファルツ選帝侯が中心となり、新教同盟(ユニオン)が結ばれます。それに対抗する形で、バイエルン侯を中心に旧教同盟(リーグ)が結成されます。このころにはカトリックとプロテスタントの対立は政治的様相を濃くしていました。


失意のうちに、ルドルフ皇帝がこの世を去り、強硬派の弟マチアスが帝位を継ぎます。さらに、マチアスを含め、ルドルフの兄弟いずれにも子供がいなかったことがあって、従兄弟のフェルディナントを次期皇帝位に据えるべくボヘミア王に据えます。ボヘミアは選帝侯の一つであり、重要なハプスブルグ領であり要所でした。フェルディナントは、異端狩りを行ったフェルディナント大公のことで、バリバリのカトリックでした。しかし、その足元、ボヘミアにもプロテスタント勢力が入り込んでいました。ドイツ三十年戦争の始まりは、このボヘミアからでした。


プラハ城窓外放擲事件

1609年の皇帝による勅書で信教の自由が認められたプロテスタントたちでしたが、彼らは大胆にもプラハ大司教の住む村の、王領地に教会を建てたのです。国王の使節が王領地に教会を建てる権利はないと、教会の閉鎖を命じます。この当時、既にマチアス帝の時代に代わっていました。プロテスタントたちは、この決定に不満をもたらします。反対したプロテスタントたちの多くは、現地の貴族たちでした。つまり、支配者階級に属する人間たちでした。貴族の利権も複雑に絡み、問題は宗教対立と、主君の主権と貴族の権利の問題と、幾つかの側面を持つ事件でした。


1618年5月初め。プラハで起こった抗議集会を皇帝は禁じます。それを受けて、百人近くの代表者がプラハ城に押しかけました。国王の執務室には、王権の地域執行者である2人の代官がおりました。彼らは2人の代官と、居合わせた書記官を執務室から放り投げます。ところが、十数メートルはある高さから落とされた彼らは、どういうわけか無傷で生還しました。カトリックたちは、神が彼らの身を救ったのだと喝采します。


この窓外放擲という行為は、反乱の意思を示す、政治的パフォーマンスの一種でした。プロテスタント貴族たちによる明確な意思表示でした。ボヘミア王国は、ハプスブルグ帝国領の中でも特異な位置にありました。当時の中央ヨーロッパで最も発達した地域であり、皇帝を選出するための選帝侯位も有していました。さらに、ルドルフ帝は居城をウィーンからプラハに移します。言ってみれば、この当時の帝国の帝都でした。しかし、そのために、帝国全体の経費の半分がボヘミアからまかなわれるという状態にもなっていました。ボヘミアの貴族たちからしてみればたまったものではありません。ボヘミア貴族の不満と、何があってもボヘミアの地を失いたくないハプスブルグ家。爆発の土壌は出来ていました。


ボヘミア反乱鎮圧

ボヘミアの反乱は、一時的に成功し、兵をかき集め、トゥルン伯爵を司令官に据えます。さらに、各国に応援を要請します。国内の宗教対立で手一杯のフランスは援軍を出すことは出来ませんでしたが、ハプスブルグ家の仇敵であったサヴォイ侯国からは、傭兵隊長マンスフェルトに率いられた2万の援軍を得ることが出来ました。さらに、ユニオンもプファルツ選帝侯が諸侯を招集し、応援を検討しますが、各国の思惑も入り混じり足並みが揃いません。鎮圧軍側も、スペインに支援を求めます。始まったばかりから、この戦争は国際紛争の様相を見せていました。


1619年に、マチアス帝が逝去し、選帝侯による皇帝選挙が行われます。プファルツ選帝侯は引き伸ばしを図りますが、妥協することを選んだ選帝侯も多く、フェルディナント2世が誕生します。しかし、ボヘミアの方では、フェルディナントのボヘミア王位が廃位され、プファルツ選帝侯フリードリッヒ五世を新国王に選びます。フェルディナント2世は、ボヘミアを徹底的に叩くことを決意し、リーグの指導者・バイエルン侯を抱きこみます。バイエルン侯は名将テイリーに2万5千の兵を預けて送り出します。


ボヘミア国王となったフリードリッヒ5世でしたがオランダ、デンマーク、ヴェネツィア、新教同盟もフランスも、イングランドも……期待と頼りにしていた国々がまとめてそっぽを向いてしまい、ろくな支援を受けられませんでした。プロテスタントだったザクセン選帝侯も、今回はボヘミアの問題を神聖ローマ帝国内で解決しようと、皇帝の味方につきます。


さらに、サヴォイ侯まで、後ろを向いてしまいます。ひそかにボヘミア王位を狙っていたサヴォイ侯にとっては、それが手に入らないとなれば、フリードリッヒ5世に手助けする義理はありませんでした。傭兵隊長マンスフェルトとの契約を打ち切り、自国領内にスペイン軍を素通りさせてしまいます。さらに、フリードリッヒ5世陣営内の対立もあり、手詰まりの中、戦端が切って落とされることになったのでした。


白山の戦いとその戦後処理

1620年11月。プラハ郊外の小高い丘で戦闘は起こります。ボヘミア反乱軍は2万1千と大砲7門。カトリック連合軍は総勢2万6千、大砲12門の戦力でした。結果は――カトリック連合側の文句なしの圧勝でした。フェルディナント2世は、敗者に対して徹底的に弾圧を行います。


反乱の指導的役割を果たした27名のボヘミア貴族を処刑し、658家の貴族と50の都市から領地が没収されます。再カトリック化により、15万人の難民が発生しました。


ボヘミアをハプスブルグ家の世襲王政とし、さらに、皇帝の独裁体制を敷くために、皇帝と帝国議会という二重権力構造の打破に努めます。プファルツ選帝侯フリードリッヒ5世を追放し、選帝侯位を剥奪。バイエルン侯に与えます。誰もが、この行動には驚きました。選帝侯は皇帝を選ぶために存在しているのに、その選帝侯位を皇帝が剥奪したり与えたりできるのか?


さらに、応援を求めたスペイン軍が、プファルツ選帝侯領に居座ることまで認めます。外国の軍が、帝国内の領地に居座ることを、神聖ローマ帝国の皇帝が認めるとは! あからさまに帝国の皇帝への権力集中と、カトリック化の方向に舵を切ったフェルディナント2世。そのかたくなな態度が、戦火を拡大させ、三十年戦争という長きに渡る戦乱に神聖ローマ帝国を巻き込んでいくのでした。


三十年戦争とは

三十年戦争といっても、30年間、延々戦争を繰り返していたわけではありません。その間に、13の戦争と10の平和条約があったとされます。その流れは、大きく分けて4つの段階に分かれます。


@ ボヘミアの反乱からプファルツ選帝侯フリードリッヒを追放するまで。

A デンマークの北ドイツ侵攻。

B スウェーデンの帝国侵攻。

C フランスの介入。


そして、1648年のウェストフェリア条約締結で三十年戦争は終わります。その被害は甚大で、人口の半分以上を失い、農業生産力が戦争以前まで回復するのに2世紀を要したとされます。三十年戦争の被害は甚大でしたが、後のプロイセン王国がそれを誇張し、後にドイツがフランスの後塵を拝さなければならなくなった全責任を、三十年戦争になすりつける政治的プロパガンダに利用された側面も大きいのです。この戦争は、決して起こるべくして起こった戦争ではなく、しかし、ヨーロッパの中心がスペインからフランスに移行し、時代が中世から近世へと移行する時期に起きた、悲劇的戦争でした。


始まりの終わり

1621年にスペインとオランダの休戦協定が切れます。スペインは、プファレツ選帝侯領から退却してしまい、そこに軍事的空白地帯が出来ました。皇帝はプファルツ選帝侯の本拠であるライン地方に関心を向けます。


追放され、「ボヘミア冬王」と蔑まれていたフリードリッヒ5世は、これを機にかつての領土回復のために兵を挙げます。さすがに、かつてのプロテスタント陣営のリーダーであった彼は、幾つかの味方を手に入れることに成功します。


例えば、マンスフェルト軍。サヴォイ侯から切られたあの傭兵隊長です。その軍を維持するために各地で略奪を繰り返し兵を食わせていました。ブラウンシュヴァイク侯の弟のクリスチャン。大した軍歴もなく、ただの甘ったれた若造でした。ではなぜ、それが軍を挙げたか。早い話が、フリードリッヒ5世の妻で、イングランド王女で、今は追放の身にあるエリザベスに恋をしてしまったからでした。軍旗には「神とエリザベスのために」と刺繍しました。しかし、1万5千の軍勢は侮れません。さらに名君の誉れ高いバーデン辺境伯。いずれ、フェルデイナンド2世によって自領が侵されるのを警戒してのことでした。その兵力は1万1千。すべてが、集結すれば、その戦力は脅威になります。


皇帝軍の主力は旧教連合軍でバイエルン侯配下の名将テイリーが指揮を取ります。さらに、スペイン軍が加わります。フリードリッヒ陣営の合流を阻んだのはネッカー川とマイン川でした。バーデン伯軍はネッカー渡河作戦に失敗し戦意を喪失します。クリスチャンの軍はマイン川を渡りきりましたが、大量の兵を失いました。マンスフェルトは、クリスチャンの軍勢と共には戦えないと判断し、自軍温存を図り、アルザスまで退却してしまいます。


かくしてフリードリッヒ軍は、皇帝軍に戦闘らしい戦闘にもならずに蹴散らされ、フランスのブイヨン公を頼り逃れますが、もはや彼に力を貸そうという者は現われませんでした。1623年2月。とうとう、プファレツ選帝侯位は正式に廃位されたのです。


もちろん、これで、神聖ローマ帝国の混乱に決着がついたわけではありません。カトリック対プロテスタントの戦いはより先鋭化していきます。戦いの舞台は北ドイツへと移行していきます。とうとう外国勢力が兵を挙げて介入してきたからです。




【参考書籍】