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歴史小話


フィリッポス2世による古代ギリシア世界の統一 時代背景



紀元前359年に即位したフィリッポス2世は、軍制改革を推し進め、北方の後進国に過ぎなかったマケドニアを、古代ギリシア世界(ヘラス)に覇を唱えるほどの強国に仕立て上げます。マケドニア勢力を恐れたギリシアの諸ポリスは同盟を組み、対抗します。いよいよヘラス統一を目論見、軍を挙げたフィリッポス2世を同盟軍はカイロネイアで迎え撃ちます。

この戦いで勝利したフィリッポス2世はヘラス統一を成し遂げ、ペルシア侵攻の兵を挙げます。フィリッポス2世はその道半ばで凶刃に倒れますが、その遺志は、息子アレクサンドロス大王に受け継がれ、空前の大帝国建国へと繋がっていくのでした。


開戦前の世界状況


オリエントの統一とギリシア文明

チグリス川とユーフラテス川の流域(メソポタミア)、ナイル川流域(エジプト)、そしてその中間の地域をオリエントといいます。世界最古の文明を生み出したこの地域は多種多様な自然環境と、多民族・多言語の文明を育んで生きます。この地域を統一するのは容易ではありませんでしたが、紀元前8世紀後半にアッシリア帝国によって初めて統一されました。紀元前7世紀に再び分裂したオリエントを紀元前6世紀に統一したのはペルシア人(イラン人)でした。アケメネス朝ペルシア帝国の登場です。広大な領土、様々な民族を支配するために、ペルシア帝国は優れた行政機構を生み出します。インフラを整備し、中央集権的な支配構造を生み出すことで約200年に渡る長い支配を実現したのです。


オリエント文明は諸民族の交流の中から磨き上げられ創造されました。こういった文明は周辺の地域にも大きな影響を与えました。エーゲ海地方に、新たな文明の種をまき、それはギリシア文明へと発展していきます。ポリスと呼ばれる都市国家を形成し、黒海沿岸やイタリア半島。シチリア島、西地中海の北部海岸へと進出し植民地化し、それらとの通商で多くの富を蓄えます。


ペルシアによる対ギリシア政策

そのギリシアの最大の試練は紀元前5世紀のペルシア戦争でした。イオニア植民市が宗主国ペルシアに対し反乱を起こし、それに対しアテネなどが支援したのをきっかけにペルシアがギリシア本土に侵攻。ギリシアの諸ポリスは一致団結してこれにあたり、3次に渡るギリシア遠征をことごとく挫折させました。(紀元前500年〜紀元前479年)


しかし、その後はギリシアでポリス同士が互いに争う時代になります。その中で台頭してきたのがアテナイとスパルタでした。ペルシア戦争時代のサラミスの大海戦を経て大海軍国に成長したアテナイは、対ペルシアに備えての安全保障機構の設立を諸ポリスに提唱し、デロス同盟を結成します。当初は対等の立場だったはずのこの同盟は、やがてアテナイの軍事的優位が目立つようになります。これに反発した非デロスの諸ポリスは陸軍国スパルタを中心に同盟を結成し、これに対決姿勢を強めます。


ついに、この両同盟間で戦争が始まります。ぺロポソネス戦争の始まりです。紀元前431年から紀元前404年まで続いたこの戦争でスパルタはアテナイに取って代わりギリシア世界の盟主に取って代わります。しかし、スパルタにもギリシア世界を束ねていけるほどの資金力・政治力はなく、そこにペルシアがつけこんできます。ペルシアの資金力はギリシア世界の諸ポリスとは比べ物になりません。ギリシアのポリスの指導者たちに大金をばら撒くことで、政治に干渉するようになります。それによってポリス同士を互いに争わせ、とびぬけた勢力を持たないように工作します。


その結果、紀元前395年にペルシアの援助を受けたアテナイ・コリントス・アルゴス・テーバイの連合軍と、スパルタとの間に戦争が起こります。スパルタは「ギリシアの各ポリスの自治はペルシアによって保障される」という、屈辱的な条約(大王の和約)を結び、覇権を維持しようとします。


ポリスの衰退

ギリシアは政治的には衰退期にありましたが経済・文化の面では円熟していました。アテナイのパルテノン神殿のような建造物や、ソクラテスやプラトン、アリストテレスといった高名な哲学者が出てきます。しかし、社会のシステムは限界に達しつつありました。かつては数百人からせいぜい数千人だったポリスの人口は増加し、貧富の差は拡がっていきます。かつてのペルシア戦争で自ら剣を取って立ち上がったポリスの市民兵士たちは傭兵として外国に雇われ東地中海を転戦するようになります。市民の自治と独立を謳ったポリスの理念は失われ、ギリシア世界は崩壊していきます。


この流れに最後の抵抗を示したのはテーバイのエパメイノンダスでした。ギリシアの自由と統一の理想に後押しされ、レウクトラでスパルタを破りギリシアの覇権を握ります。古代ギリシアの戦争は、ポプリタイと呼ばれる重装歩兵の密集陣形による突撃戦でした。エパメイノンダスは、それを改良し極端に戦力を集中することで敵軍を旋回させることを目的とした斜線陣戦術を生み出します。斜線陣戦術はフィリッポス2世により更なる改良が加えられ、散兵・騎兵を組み合わせた新戦術へと発展します。


紀元前362年にエパメイノンダスが戦死するとテーバイは急速に衰えていきます。ギリシア世界が自発的に統一に向かうことは、もはやありえませんでした。ギリシアの統一を成し遂げたのは新興国マケドニアであり、その王フィリッポス2世でした。













マケドニア王 フィリッポス2世</h4>


<p style="line-height:200%"> ギリシア北方にドーリア人によって建国されたマケドニアは、辺境の文化的にも経済的にも遅れた後進国でした。全体的に山深い地形ながら農耕に適した地帯や鉱物資源にも恵まれていました。王家を中心に所領を持つ貴族たちが支えていましたが、その実内部では貴族の力が強く、王家と近親者はその王位継承をめぐり骨肉の争いを行うこともしばしばでした。


<br> 四方を囲んだ国々はたびたびマケドニアに侵攻し、マケドニアはギリシアに覇を唱えることはおろか、自国を守ることで精一杯でした。


<br> その状況を打破し、マケドニアによるギリシア統一を成し遂げたのは有名なアレクサンドロス大王の父親であるフィリッポス2世でしたが、彼はアミンタス2世の三男でした。外国勢力に翻弄され、自国内の貴族たちは王国にそっぽを向いて私闘を繰り返す中、何とか20年もの長きに渡ってマケドニアを守り続けたアミンタス2世が死んだ後、長男がまず国を継ぎますが、わずかな統治期間でなくなります。そこで起こった継承問題にエパメイノンダスの元でギリシアに覇を唱えていたテーバイが干渉してきます。ひとまず、摂政の地位を得た人物が実権を握ります。次男ペルディカスの成年の暁にはその支配権を返すという約束が取り決められ、その履行の担保として摂政の息子と三男フィリッポスがテーバイに人質として送られます。フィリッポスが15歳前後のときでした。


<br> フィリッポスが当時の有力ポリスであるテーバイを間近で見ることができたのは彼にとって幸運なことでした。何よりも、テーバイの指導者、エパメイノンダスがと個人的な親交を持てたことは後のフィリッポスの偉業に欠かせない要素となります。エパメイノンダスの思想や、知識や経験、そして、彼が生み出し、テーバイの軍をギリシア随一の軍とさせた斜線陣を学ぶことができたことができたのでした。フィリッポスはエパメイノンダスを人生の師と仰ぎ、後のヘラス統一という生涯の大目標も、この経験なくしてはありえないことでした。


<br> フィリッポスがマケドニアに帰国したのはペルディカスが摂政を暗殺し、ペルディカス3世として即位した紀元前365年前後とされます。ペルディカス3世は国内の統一、国力の充実に力を注ごうとします。ペルディカス3世は少し焦りすぎました。マケドニアの東に位置するアテナイの植民地が本国からの離反を目指して立ち上がったとき、アテナイに敵対することを覚悟して、これを支援します。アテナイが送った軍を撃退し、東への進出に成功したペルディカス3世は次に西に眼を向けました。マケドニアへの干渉を幾度となく行ってきたイリュリアを軍事力で叩いてこれまでの力関係を断ち切ろうとしたのでした。しかし、これは失敗します。逆にマケドニア軍は壊滅させられ、ペルディカス3世は戦死します。イリュリア軍には国境沿いの土地を奪われました。


<br> ペルディカス3世には子供がおりましたが、まだ幼く、とてもこの難局を乗り切ることはできませんでした。紀元前359年についに、フィリッポスに王の椅子が回ってきました。フィリッポス2世として即位したのです。やらなければならないことは、たくさんありました。軍の強化と、経済の安定。国力を高め国内・外の諸問題を解決し、マケドニアをいかなる勢力からも脅かされない、干渉されない国家に造り替えなければなりません。


軍制の改革を行い、常設の地方別に兵士を選別し歩兵部隊を作りあげます。貴族の若い子弟を集めて、当時、ギリシア世界では軽く見られていた騎兵部隊を編成します。有名なマケドニア重騎兵「ヘタイロン」の起源です。歩兵にはサリッサという五メートルの長槍を装備させます。歩兵の接近戦や騎兵の突撃戦に大きな威力を発揮しました。


<br> また、エパメインノンダスから学んだ斜線陣戦術と、ペルシア型の軽歩兵・騎兵の共同戦術や兵站の運搬、偵察の技術などを効果的に組み合わせ、新たな兵法を創り上げます。フィリッポス2世のマケドニア軍は当時、最も完成された軍隊であり、フィリッポス2世は間違いなく当時最高の戦術家でした。


<br> 経済を発展させるためには国内の反対派を一掃しなければなりませんでした。国王に即位するかしないかの内に、反対派を分断し、確固撃破します。それから、東のパイオニア、西のイリュリアに眼を向けます。特にイリュリアは歴戦の強国でかつてペルディカス3世が苦渋を舐めさせられた相手でもあります。この難敵に編成されたばかりのマケドニア軍は苦戦しますが、ついに、ヘタイロンの突撃に成功し、イリュリア軍を敗走させます。領内のイリュリア人を追い出し、マケドニアの国家としての自立はほぼ達成されました。


<br> その後も、周辺地域へ兵を進め、次々に領土を拡大していきます。わずか数年でマケドニアはギリシアにとって無視できない存在に成長していました。フィリッポス2世もいよいよギリシア本土へと介入するチャンスを探り始めていました。</p>


 

<a name="ch4"><br>

<h4>クロコスの戦い</h4>


<p style="line-height:200%"> マケドニアのギリシアへの介入のきっかけとなったのは例によって有力ポリス同士の争いでした。テーバイが、フォキスがデルフォイの神領であるキラ(デルフォイから数キロの湾岸都市)に勝手に建造物を建てたことが、罰金を支払うに値する行為であり、拒否する場合は領土を没収すると宣告したのでした。さらに、フォキスの同盟国にもそれを命じます。フォキスには同盟国のラケダイモンやアテナイ、テッサリアのフェライなどが味方します。


<br> フォキスに支援されたフェライは同じくテッサリアのラリサイを攻撃します。ラリサイはマケドニアに支援を求めます。もしも、ラリサイが占領されテッサリアが統一されればマケドニアの南方に新たな強敵が現れることになります。フォキスは先発部隊として7千の兵を送りますが、マケドニア軍はこれを撃退し、テッサリアまで追撃します。フォキスはオノマルコス将軍率いる大軍を送り込んできました。反撃に出たフォキス軍はマケドニア軍を2度に渡って敗走させて、クロコスへと向かいます。


<br> それまで、フィリッポス2世が指揮すれば連戦連勝だったマケドニア軍は、初めての敗北に意気消沈していました。そんな兵士たちをフィリッポス2世は「自分は逃げるのではない。ちょうど山羊のように、いっそう強く突撃するために一歩後退するのだ」と兵を鼓舞します。クロコス平原はパガサイとハロス(パガサイ湾近郊の都市)の間に広がり、マケドニア軍にとって最も自軍の能力を発揮できる場所でした。そのため、この敗走はフィリッポス2世の偽装退却ではないかとも考えられています。


<br> マケドニア軍の兵力は2万の歩兵と千の騎兵。さらにテッサリアの2千の援軍がありました。対するフォキス軍は2万の歩兵に5百の騎兵と推定されます。


詳細な布陣や戦闘の経過は不明ですが、マケドニア軍の圧倒的な戦闘力の前にフォキス軍は敗北します。たまたま付近を航行していたアテナイの軍艦を助けを求め、フォキス軍の兵士は鎧を脱いで逃げ出しました。そのことが、さらに被害を大きくし、オノマルコス将軍は6千の兵士と共に戦死し、


3千の兵士が捕虜となりました。フィリッポス2世は神聖なデルフォイの宝物を盗んだ罪としてオノマルコスの亡骸を処刑し、捕虜を生きたままひとくくりにして、海に突き落とします。


<br> 当初の当事国だったテーバイとフォキスには戦争を継続する能力はなくなり、アテナイとマケドニアの戦争にその形態が変わっていきます。紀元前346年に両国の間に講和(フィロクラテスの和約)が結ばれるとフォキスは降伏。テーバイは、その戦後処理をマケドニアに委ねることになりました。さらに、フォキスやその同盟者に苦しめられていた諸ポリスがマケドニアの傘下に集うようになります。


<br> マケドニアはギリシアの正当な信仰の擁護者として頼られるようになったのでした。</p>




<a name="ch5"><br>

<h4>因縁のライバル フィリッポスとデモステネス</h4>


<p style="line-height:200%"> アテナイのデモステネスはフィリッポスより一歳年下の政治家でした。弁論家で知られ、マケドニアとは徹底抗戦を主張しました。フィリッポスの個人的資質は高く評価していたものの、かつてのペルシア以上にギリシアの独立と自治を脅かす危険な存在であると捉えていました。デモステネスは生真面目な努力家で、雄弁の才では誰にも引けを取らず、現代においてさえ、フィリッポスの評価が分かれる源となってしまいます。紀元前346年にフィロクラテスの和約が締結されたときは、それを批判し徹底抗戦を訴えました。しかし、長い戦争に嫌気がさしていたアテナイの市民はこれを受け入れず、講和に同意しました。


<br> デモステネスの警告が現実となったのは紀元前343年のこと。フィロクラテスの和約から、わずか3年ほど後のことでした。トラキアを制圧したマケドニア軍がボスボラス海峡に面したピュザンティオン(現トルコの首都・イスタンブール)を攻囲します。黒海への海上連絡路が危機に陥り、ついにアテナイも艦隊を出撃させます。陸上では無敵のマケドニア軍も、海上においては長い伝統と歴史のあるアテナイの海上戦力には到底及びませんでした。ピュザンティオンの攻略に失敗し、兵を引き上げたフィリッポス2世は、直接アテナイと戦端を開くことを決心します。


<br> アテナイも、デモステネスを筆頭に、反マケドニアの勢力を結集し、迎え撃とうとします。海上はとにかく、陸上では到底マケドニア軍に対抗できないアテナイは強力な味方としてテーバイを陣営に引き込もうと画策します。マケドニアもテーバイを自軍に引き入れようとしますが、テーバイは最後はアテナイ陣営につきます。そのほか幾つかの中小ポリスがアテナイ・テーバイの同盟の陣営につきました。ペルシア戦争時のギリシア同盟の再現をもくろみ、ペルシア戦争のプラタイアの戦い(紀元前479年。ギリシア同盟軍はこの戦いでペルシア軍に勝利し、ペルシアのギリシア侵攻を挫折させました)の再現を狙ったものでした。それは、いよいよカイロネイアで実現します。</p>


<a name="chy">

<h4><font color="#ff0000"><center>戦闘の経過</center></font></h4>



<a name="ch6"><br>

<h4>カイロネイアの会戦</h4>

<p style="line-height:200%"> 紀元前338年。ボイオティアの中心部へ侵攻を始めたマケドニア軍を迎え撃つべく、アテナイ・テーバイ同盟軍はカイロネイアに布陣を敷きます。マケドニア軍は歩兵3万2千。騎兵2千程度と推定されます。同盟軍は歩兵3万5千。カイロネイアの会戦は、あたかも古い戦争と新しい戦争のぶつかり合いでした。


<br>  同盟軍がずらりと用意した3万を超える重装歩兵(ポプリタイ)の大軍団はいかにも華やかでした。重装歩兵の装備はその名の由来となった大きな円形の盾(ポプロン)と、長さ2から2.5メートルの長槍を重装歩兵はファランクスと呼ばれる密集方陣を組み、歩調を合わせて前進します。その衝突力はとても大きいものでしたが重い装備と、密集陣形のため機動力は甚だ鈍く、投射武器に弱いという欠点がありました。

<br> 当時のギリシア軍は重装歩兵以外の軽装歩兵や騎兵、弓兵といった兵科はあまり持っていませんでした。


<br> ギリシアの重装歩兵による密集方陣を改良し、軽歩兵、騎兵を効率的に配置し、独自の戦闘陣形を編み出したのがフィリッポス2世でした。サリッサを持った重装備の歩兵部隊(ぺゼタイロイ:重装歩兵というよりは軽歩兵に近い)と盾持ち兵と散兵という軽装の兵士によって、敵の大部隊の足を止め、騎兵による突撃で敵を粉砕するというものでした。


<br> 左にアクロポリスの丘、右にケフェソス河という地点に布陣した同盟軍は、左翼にアテナイ軍。右翼にテーバイ軍。中央にそのほかのポリスから集めた兵を配置します。対峙したマケドニア軍は中央から右翼にかけて歩兵部隊が。左翼には若干18歳のアレクサンドロス率いる騎兵部隊が配置されていました。右翼は正面のアテナイ軍に対して大きく突き出した斜線陣の形をしていました。そこでフィリッポス2世は指揮を取っていたとされます。

<br> 斜線陣は前述したテーバイのエパメイノンダスによって生み出されたものでしたが、味方であったテーバイも、敵であったアテナイも、エパメイノンダスから何も学んでいませんでした。しかも、フィリッポス2世は、この突き出した右翼をエパメイノンダスがそうしたように先制攻撃の手段とするのではなく、敵をおびき出す上等な罠として仕掛けました。


<br> 最初にマケドニア軍の右翼の歩兵部隊とアテナイ軍が先端を開きました。アテナイ軍の将軍は、兵に前進を命じます。小競り合いの後、サリッサを構えたマケドニア軍は徐々に後退していきました。アテナイ軍は前進して行きますが、徐々に友軍から引き離されていることに気付いていませんでした。重装歩兵の兜は両耳をすっぽり覆っていて指揮官の声さえよく聞き取れなかっただろうとされます。そのため、一度動かした部隊を止めるのは難しいことでした。


<br> 前進を続けるアテナイ軍と、中央の部隊の間に致命的な間隙ができ始めていました。アレクサンドロスが率いる騎兵部隊がその間隙めがけて突入します。アテナイ軍と友軍とを分断したアレクサンドロスは左に回り、テーバイ軍に打撃を加えます。さらに、別働隊に逃げ道をふさがれたテーバイ軍はなすすべもありませんでした。特に、テーバイ軍の精鋭部隊、神聖隊は最後まで勇戦し、300の兵の内、254人が倒れたとされ、以後編成されることはありませんでした。


<br> アレクサンドロスが敵軍を分断したのを見て取ったフィリッポス2世も、歩兵部隊に前進を命じます。重い装備でくたくたになっていたアテナイ軍は、敵の反撃を受けきることはできませんでした。左翼、中央部は崩壊状態になり敗走が始まります。アテナイ軍は1000の戦死者と、2000の捕虜を出したとされます。


<br> フィリッポス2世は果敢に戦ったテーバイ軍の兵ために遺骸を埋葬した場所に獅子の像を建立します。


<br> カイロネイアの勝利によって、マケドニアは全ギリシアの覇者として君臨することになったのです。</p>


<a name="ch7"><br>

<h4>フィリッポス2世暗殺</h4>


<p style="line-height:200%"> フィリッポス2世は自らが立ち上げたコリントス同盟の盟主となったものの、諸ポリスに対して君主として振舞うことはしませんでした。諸ポリスには、名目上は独立を保たせ、実利を取ったのでした。


<br> いよいよフィリッポス2世はペルシア侵攻を具体化させます。その最終目的が打倒ペルシアまで考えていたものだったのかは、紀元前336年。私怨を抱いた家臣によって、あっけなく暗殺されてしまい、それは分からなくなりました。フィリッポス2世はこのころ、アレクサンドロスの母オリュンピアスと離縁し、マケドニアの貴族の娘、エウリュディケと結婚したばかりでした。もしも、彼女に子供ができたらアレクサンドロスの王位はなくなります。そのため、オリュンピアスとアレクサンドロスの陰謀説もささやかれましたが、マケドニア国内では大した混乱はなくアレクサンドロスがフィリッポス2世の後継者として即位します。


<br> しかし、国外ではそうはいかず、少なからず混乱を引き起こしました。フィリッポス2世によって支配下に置かれた国や地域、同盟国がアレクサンドロス3世を侮り反旗を翻したのです。アレクサンドロスの最初の仕事は、これらの平定でした。




【参考書籍】