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歴史小話


コンスタンティノープル攻略戦〜1453年 時代背景〜



395年にローマ帝国が東西に分裂して誕生したピザンツ帝国(東ローマ帝国)も、時の流れと共に衰退していき、この頃にはわずかな領土しか持たない一介の地方都市国家となっていました。逆に、14世紀の初めに勃興したオスマン帝国は拡大の一途をたどり、ヨーロッパに向けてその手を伸ばします。その巨大な相手にピザンツ帝国は最後の抵抗を試みます。


時代背景


ピザンツ帝国の衰退

ローマ帝国が東西に分裂して後、ヨーロッパとアジアの境に位置してしたこの国は、6世紀には最大版図を獲得し、10、11世紀には文化的にも、軍事的にも隆盛の極みを迎えます。しかし、東西からの異民族の侵入や、内部抗争によって徐々に弱体化し、1071年のマンツィケルトの戦い(ピザンツ帝国と大セルジューク朝との戦い)では皇帝が捕虜になるという大敗北を喫し、その威信は地に落ちました。


その後にはピザンツ帝国とローマ教会との関係が悪化し、1204年の第四次十字軍はその刃の矛先がコンスタンティノープルに向けられ、ピザンツ帝国皇帝は追い出されラテン国家を打ち立てられてしまいます。その後1261年にピザンツ帝国はコンスタンティノープルの奪還を果たしますが、このとき受けた打撃から回復することはできませんでした。


強力な常備軍や傭兵を養う財力は失われ、地方への統制は弱まり、辺境の防衛はアクリタイというキリスト教戦士集団に委ねられます。彼らは雑多な出自の人々によって組織された戦士集団でした。


アナトリア半島(ピザンツ帝国の東半分)はピザンツ帝国の力の及ばない、しかしイスラム教徒勢力も確固とした勢力のない、権力の空白地域となっていたのです。


オスマン帝国以前のアナトリアのトルコ人勢力

トルコ人のふるさとは内陸アジアでした。遊牧民族として独自の文化を築いていました。8世紀半ばから9世紀半ばにかけて発展したウイグルもトルコ系の国家でしたが、そのウイグルが滅んだ後、西方の中央アジアへと移動していきます。その頃、アラブの支配は中央アジアにまで及んでおり、トルコ人は自然にイスラム化していきます。


やがて、イスラム化したトルコ人によって国家建設の動きが起こります。中央アジアからイラン高原に入ったトルコ人によって大セルジューク朝が11世紀に前半に建設されます。


1063年に大セルジューク朝のスルタンとなったアルプ・アルスランはアナトリアに侵攻を開始します。1071年のマンツィケルトの戦いでピザンツ帝国軍を破り侵入していきます。


しかし、アナトリアに侵入した大セルジューク朝では内紛がおこり、1077年ルーム・セルジューク朝がたてられます。


ピザンツ帝国はこの制圧のために対立していたローマ教会や西欧に支援を求めます。ローマ教会や西欧は聖地巡礼の道程の安全確保のために大規模な十字軍を派遣しますがイスラム教勢力はこれを跳ね返します。


ルーム・セルジューク朝の衰退させたのは当時、中国大陸を制圧し、ヨーロッパ方面に、内陸アジアに向けて空前の大帝国を築き上げていたモンゴル人によってでした。1243年にルーム・セルジューク朝は属国化され、14世紀には完全に消滅します。ルーム・セルジューク朝の衰退によって、アナトリアは再び群雄割拠の戦国時代となります。ピザンツ帝国には巻き返す力はなく、ガーズィーと呼ばれるムスリム(イスラム教徒)の武装集団が乱立していました。


初期のオスマン帝国

初期のオスマン帝国やその建国者オスマン・ベイ(ベイとはトルコ語で総督・将軍の意)の出生などは伝説に包まれています。オスマン家はセルジューク朝と同族のオグズ族の出身で、カユ族の部族長であったとされます。


ガーズィーの一団を率いてキリスト教徒の領主や他のガーズィーと戦闘と征服を繰り広げます。オスマンはまずカラジャサヒル城を中心とした小さな国を成立させることができました。


さらに1290年代には8つの辺境の城と、トルコ族の町エスクシェヒルを奪います。1299年にはカラ・スーの河谷を片付けイェニシェヒルを奪い、初めて首都らしい都市を手に入れ、オスマン朝国家は史上に登場します。


1301年にコユンサヒルの戦いでピザンツ帝国軍を討ち破り、その名声を高めます。その頃からブルサ攻略戦が始まります。ブルサはピザンツ側からみればただの地方都市でしたがオスマン朝から見ればこれまで征服した町を上回る大規模な都市でした。


オスマン朝は、まだこの町を攻め落とせるほどの戦力は有していませんでしたが、ブルサと他のピザンチン領とのつながりを寸断し孤立させます。その後もプルサは数年間持ちこたえますがついに陥落します。この町はピザンツ帝国のアドリアノーブルを占領するまでオスマン朝の首都とされました。


1340年ごろまでにアナトリアのピザンツ帝国領の大半はオスマン領になります。バヤジット一世(オスマン朝第4代スルタン。在位1389年〜1402年)の時代にはコンスタンティノープルを包囲することができるほどの戦力を蓄えていましたが、1402年アンカラでモンゴル軍に敗北したのをきっかけに一旦帝国は分裂します。1413年に再建され、マホメッド1世、ムラト2世により再統一がなされます。


破竹の勢いで拡大していくオスマン帝国はヨーロッパへとその眼を向けますが、この後30年ほどは自国の強化に力を注ぎます。


いまやコンスタンティノープルとわずかな領土のみとなったピザンツ帝国。オスマン帝国にとってヴェネツアやジェノバなどのような通商を得意とする都市国家との中継点としての役割しか担うことしかできなくなっており、オスマン帝国としてはわざわざ兵を挙げて潰す必要はなくなっていました。むしろ、共存を考えて生き残らせたほうがオスマン帝国にとって利となるという考えのほうが支配的になっていました。


征服王マホメッド2世

マホメッド2世はムラト世の三男として1432年に生まれました。母親は身分の低い元キリスト教徒だったとされます。兄二人を次々に失ったマホメッドの元に、王位継承権が回ってきます。


1451年にムラト2世が没し、マホメッド2世は21歳で即位します。実はこれは三度目の即位でした。最初の即位は12歳のときでした。ムラト2世はまだ40歳。オスマン帝国はもはや安泰と考えたのかマニサにさっさと引退し、隠居生活を始めます。


ところがその2年後の1445年に突然ムラト2世が復位してしまいます。ハンガリーのヤノシュ・フニヤディが率いる十字軍がオスマン帝国に侵入してきたことが直接の原因でした。年若いスルタンではこの難局は乗り切れないと考えた宰相、カリル・バシャがひそかにムラト2世に打診したものでした。


この事件はある種のクーデターでもありました。コンスタンティノープル攻略の意思を隠そうとしなくなった若いスルタンに対する危機感。巨大になった帝国で出来上がりつつあった新たな専制君主・官僚制度の中で宮廷奴隷出身で小姓としてスルタンの側近となった勢力と、イスラム法学を学び、イスラム法官の職を経て宰相となったカリル・バシャのような勢力。新旧勢力の対立も存在していました。


マホメッド派だった宮廷奴隷出身の大臣ザガノス・バシャも左遷されます。これらの出来事が14歳の誇り高く、後に征服王と称されることになるマホメッド2世にどれほどの屈辱を与えたのか。約5年間の隠棲生活の間、戦争が起きれば同行は許されましたが目立った戦功をたてる機会は与えられませんでした。


1451年2月。ムラト2世が没します。その訃報が告げられると大急ぎで首都へと駆けつけ即位します。大広間にはトルコの主だった面々が集まっていましたが、宰相カリル・バシャら、ムラト2世時代の大臣たちはマホメッド2世から遠く離れた場所に立っていました。その場にいた人たちは、かつての経緯からカリル・バシャは首を切られてもおかしくないと感じていましたが、マホメッド2世は大臣たちの留任を宣言し、ひとまず新たなスルタンの元で支えていく体制ができました。


しかし、カリル・バシャの盟友であった大臣のイザク・バシャはムラト2世の遺体を墓所へ運ぶ任を与えられ、それが終わった後も任地に留められ首都に帰ることを許されませんでした。そして、かつて左遷されたザガノス・バシャを呼び戻します。そして、唯一の弟、アフメットを殺し、皇位争いの憂いを絶ちます。後にトルコでは慣習になってしまった即位直後の兄弟殺しはここにその先例が作られたのです。


マホメッド2世は最初はピザンツ帝国を始めキリスト教国に対し穏健な顔を見せます。しかし、腹の中ではピザンツ帝国攻略の計画は着々と進行していました。


逆に、ヨーロッパの諸国やオスマン帝国以外のイスラム勢力は新しいスルタンを過小評価してしまいました。戦上手で知られたムラト2世と比べ、若いスルタンなど恐れるに足らず、と。


しかし、ピザンツ帝国皇帝コンスタンティヌス11世はそれほど楽観視することはできませんでした。オスマン帝国との不可侵条約が締結されてすぐ、西欧に援助の要請を出します。そして、その予想はそれほどの時間をおかず現実のものとなるのです。


地中海のライバル ヴェネツィアとジェノバ

都市国家として発展してきたヴェネツィアとジェノバは13世紀以降の地中海の主役に躍り出ます。地中海を舞台にさらに黒海でイスラム教徒を対象に貿易をおこなうのにコンスタンティノープルは格好の中継地点でした。


ヴェネツィアとジェノバは地中海の覇権を争い1250年代から100年以上もの期間に渡って争いを続けました。といっても、5年おきくらいに戦端が開かれ現実に戦争をしていたのは20年ほどに過ぎませんでした。都市国家でしかなかった両国の戦争継続能力は決して高くなかったためでした。


オスマン帝国のスルタン、マホメッド2世がコンスタンティノープルを配下に置き地中海世界の覇者にならんという野心を明確にし始めたとき、その対応を迫られた最たる国がこの2カ国でした。両国ともコンスタンティノープルとは長い交流があり、またオスマン帝国とも不可侵条約を結んでいました。


なにより、貿易によって成り立っている両国にとって宗教よりも経済が優先するのは当然のことでした。コンスタンティノープルが陥落すれば黒海貿易はやりにくくなります。しかし、オスマン帝国の戦力は圧倒的です。うかつに手を出すより、これまでどおりの貿易が許されるのなら黙殺もやむなしと考える者がいたのも当然でした。


迫り来るオスマン帝国の影

マホメッド2世が即位してすぐアナトリアで最大のライバルだったカラマン君侯国が講和条約を破棄して侵攻してきます。それをあっさり片付けると、その帰途にコンスタンティノープルの近くまで足を伸ばし、ボスポラス海峡のヨーロッパ側の岸に要塞建築を命じます。さらに3月になると自ら30隻の船と共に現場に到着。自ら指揮を執り驚くほどの速さで要塞を完成させます。完成する夏までにピザンツ帝国は何度も抗議をおこないますがマホメッド2世は聞く耳を持ちません。マホメッド2世はこの要塞にルメーリ・ヒサール(ヨーロッパの城)と名付けます。バヤズィット一世がアジア側の岸に建てたアナドル・ヒサール(アジアの城)と合わせてボスポラス海峡を封鎖する環境が整いました。


これらコンスタンティノープル攻略の準備にカリル・バシャらは反対していました。ヨーロッパとアジアの中間点として対オスマン帝国の最前線に存在しているコンスタンティノープルを落としてしまった場合、西欧のキリスト教徒を刺激し、再び十字軍の派遣につながり厄介なことになる。地理的に防衛に適し、強固な城塞に囲まれたコンスタンティノープルをそう容易く攻め落とすことは難しい。コンスタンティノープル温存は先王ムラト2世の路線でしたがマホメッド2世は聞き入れませんでした。


しかし、コンスタンティノープル攻略の最大の障害となるのは強固な三重の城壁でした。1452年の秋になってウルバンと名乗るハンガリー人がトルコの宮廷を訪れます。コンスタンティノープルの城壁を破壊できるほどの大砲が造れると売り込んできたこのキリスト教徒をマホメッド2世は巨額の報酬を払って雇い入れます。実はこの人物は先にピザンツ帝国の宮廷に売り込みに行ったのですが提示した額があまりに大きく、それを支払うことができなかったのでした。


かくして大砲の製作は成功します。砲身の長さは約8メートル。600キロの砲弾を約1.5キロ飛ばして地表から2メートルも埋まって止まりました。その轟音は20キロ四方に響き渡り、実験前にエディルネ(かつてのアドリアノーブル。この頃のオスマン帝国の首都)の住人に音に驚かないように布告された後で発射されました。


海からの攻撃のために軍艦・輸送船の建造や改修を進め、1453年の1月に帝国中から兵員・物資を集めるための動員令が出されました。コンスタンティノープルへの陸上封鎖も粛々とおこなわれました。コンスタンティノープルにウルバンの大砲と先遣隊が送られます。3月の終わりにはマホメッド2世も含めたトルコ全軍が出立したのでした。


決戦直前のピザンツ帝国

ボスボラス海峡の2つの要塞に大砲を取り付けたオスマン帝国は海峡を通る船舶に莫大な通行料を要求してきます。あまりに一方的な要求にヴェネツィア・ジェノバや海域を通る西欧の商船は断固無視すべしと決めます。しかし、砲撃から逃れ切れなかったヴェネツィアの商船がオスマン帝国に捕らえられるという事件が起きました。ヴェネツイア側は両国間で交わした条約を盾に抗議しますが、問答無用で船長以下乗組員全員が処刑されました。 正式な条約を結んでいる国でさえこの仕打ちに、コンスタンティノープルの商人達は一斉に引き上げを始めました。


コンスタンティノープルのヴェネツィア居住区は一致して街を守ることを決意します。ヴェネツイアの商船・軍艦はトレヴィザン提督の配下に組み込まれます。ジェノバ人の傭兵・ジュスティアーニが500の兵を引き連れて救援に到着します。彼らの報酬はピザンツ皇帝が支払わなければならないものでしたが、歴戦の戦士の到着は皇帝にとって心強く、コンスタンティノープルを護りぬいた暁には報酬としてレムノスの島を与えることを約束しました。


海軍はトレヴィザン提督が陸上部隊はジュスティアーニという体勢が整いますが防衛軍の総力はどんなに多くてもせいぜい一万かそれ以下でした。しかも、コンスタンティノープル内部は決して一枚岩ではなく早々に徹底抗戦を打ち出したヴェネツィア人居住区はとにかくジェノバ人居住区は中立を保つことを決めました。ヴェネツィア・ジェノバの両国はイタリアの内戦を理由にわずかな援助を送ることしかできませんでした。1月にヴェネツィアに送った援軍の要請に、ヴェネツイア議会は30隻からなる応援部隊を送ることを決めます。しかし、それは遅延を重ね、ついに終戦に間に合いませんでした。


西欧の動きも鈍くなかなか兵を送ることができません。オスマン帝国にとって最も厄介な敵であった東欧の雄・ハンガリーとは早々に有利な条件で条約を結ばれ、コンスタンティノープル攻略に口を出せない状況を作られます。ピザンツ皇帝の弟が治める小さな公国はオスマン帝国の攻撃を受け、とても身動きはとれませんでした。


4月5日――マホメッド2世がついに到着します。オスマン帝国の兵力は約8万から10万程度でしたが、ピザンツ帝国の中ではそれの倍からの兵が押し寄せてきているものと考えていました。そして、ピザンツ帝国が期待した西欧からの本格的な支援はついに来ませんでした。


最後通告

オスマン帝国側は4月11日までに全配置を終了します。攻撃を仕掛ける前にイスラムの法に従い降服を促す使者を送ります。皇帝と部下が街をあけわたして家族と共に退去すれば住民の生命と財産は保障するというものでした。ピザンツ皇帝以下幹部たちは年貢金の支払いならば応じるが街のあけわたしは拒否すると回答します。いよいよ伝統と栄光に満ちたピザンツ=東ローマ帝国の最期の日が近づいてきます。












戦闘の経過</center></font></h4>



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<h4>砲撃開始</h4>


<p style="line-height:200%"> 翌12日。オスマン帝国軍の大砲が一斉に火を噴きました。69の砲門をそれぞれ15の砲兵隊に分けて城門に向けて撃つ部隊があれば、金角湾越しに撃つ部隊もあります。この砲撃は約50日間続き、3230トンもの砲弾が撃ちこまれました。城門は2日目には最大の砲によって5フィート(1.5メートル)もの穴を開けられます。コンスタンティノープル防衛隊は夜間は突貫で城壁を直しながら、オスマン帝国軍の砲に耐えました。


<br> コンスタンティノープルの街は東に向けて角が突き出したような地形をしています。その突き出しから北に向けて金角湾と呼ばれる西北へと延びる湾によって守られていました。街の南にはマルマラ海が広がり、陸上から攻められるのは西側のトラキア側でした。オスマン帝国軍の主力も陸側のメソティキオン城壁に集中します。


<br> 海上の攻防は防衛隊側の優勢でした。数ではオスマン帝国海軍の方が多かったものの、ヴェネツィアやジェノバのような海洋国家のほうがその運用や操船能力において優れていました。12日の砲撃開始以後、海上で起きた戦闘ではオスマン帝国軍がコンスタンティノープル防衛隊に追いたてられて逃げ帰る光景もありました。</p>



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<h4>総攻撃開始</h4>


<p style="line-height:200%"> 最初の総攻撃が始まったのは4月18日。日没の2時間後でした。1週間に及ぶ砲撃で城壁はぼろぼろでした。そこに10万からの大軍の歓声が轟きます。防衛隊ジュスティアーニは冷静でした。大挙してくるオスマン帝国軍を確実に仕留めていきます。圧倒的兵力を投入しすぎたことでオスマン帝国軍は機敏に動くことが出なくなり格好の的になってしまっていました。4時間にわたる激闘の末、200人の死者を出し、オスマン帝国軍は兵を引かせました。防衛隊側に死者はなく、ひょっとすれば守りきれるのかもしれないという希望を抱くことができたのです。</p>



<a name="co11"><br>

<h4>4月20日 海戦――</h4>


<p style="line-height:200%"> マルマラ海を北上してくる4隻の船影をオスマン帝国艦隊とコンスタンティノープル防衛隊双方が認めました。それは、西欧からの援助物資を載せてやってきたジェノバの船と、事前にコンスタンティヌス11世が派遣していたピザンツ帝国の船でした。


<br> マホメッド2世はこの援助物資を沢山載せたこの帆船を捕獲することを命じます。


<br> 100隻ものオスマン帝国海軍が4隻の船に群がります。マホメッド2世もガラタの城壁近くの海岸に陣取り悠然と海戦見物を決め込みます。しかし、その顔が怒りで歪むまでそれほどの時間はかかりませんでした。海戦技術の違いをまざまざと見せ付けられたからです。


<br> 錨を下し、戦闘態勢を整えた4隻の船は大型の帆船でオスマン帝国海軍が出してきたのは櫂を漕いで動くガレー船でした。海戦に向かないとされていた帆船を、迎え撃ったオスマン帝国艦隊は出してこなかったからです。しかし、操船技術の未熟さで櫂が絡み合い身動きが取れなくなる場面が出てきます。そこを見計らって船の高いジェノバ船から石矢が降り注ぎます。


<br> しかし、オスマン帝国側は数に置いて圧倒的に優勢でした。やがて、ピザンツ帝国の1隻が苦戦を強いられ始めます。オスマン帝国海軍の司令官は、鉄壁の防御を固めるジェノバの3隻は無視して、まずこの船を叩くことにします。それに気付いたジェノバの3隻がピザンツ帝国の帆船を護って固まります。あたかも海上の要塞の如き防衛陣形を取った4隻は、日が落ち始め、やがて風向きが北に変わったことを好機と金角湾へ向けて進みます。金角湾の入り口の防鎖が外され、ヴェネツィアの軍艦も出撃してきました。


<br> 日も暗くなったこともあり、新手の出現もあってオスマン帝国海軍の司令官は、引き上げを命じます。半日に及ぶ戦闘で、ぼろぼろになった4隻の船はようやく、安全な金角湾の港に接岸することができたのです。</p>



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<h4>マホメッド2世の奇策</h4>


<p style="line-height:200%"> わずか4隻の船に100隻からなる船がかかって取り逃がすという醜態にマホメッド2世は怒り狂います。しかし、決して豪胆なだけではない若きスルタンは早くも次の作戦を実効に移します。


<br> それは、ボスボラス海峡のヨーロッパ側の陸地を通って船を運び、金角湾に直接送り込むという、度肝を抜く作戦でした。有り余る兵員と物資を動員して、地面を固め、木材を並べて軌道を作り、その上を巨大な船を渡します。その数は70隻にもなりました。金角湾の中には防衛隊の艦船もありますがオスマン帝国軍がジェノバ居住区の東から大砲を撃ち込み金角湾の防鎖の方にその眼を向けさせます。


<br> 4月22日。コンスタンティノープル防衛の監視兵はオスマン帝国の国旗を掲げた船が金角湾に次々に進水していくのを目撃します。それは、白昼夢でも見ているような出来事でした。コンスタンティノープルの東側から北西に広がる金角湾は、長年この街を護ってきた天然の城堀でした。それが今失われようとしていたのです。


<br> 防衛隊側も決してそれを黙認していたわけではありませんでした。浸水が完了する前に奇襲を仕掛け、焼き討ちすることに決めます。しかし、一旦24日の夜半決行を決めたにもかかわらず、奇襲は伸び伸びとなり28日になってしまいました。その間に、コンスタンティノープルのスルタンの内通者がその計画を知ってしまいます。そうとも知らず夜襲を決行した防衛隊側はオスマン帝国海軍の反撃を受けます。


出航した4隻の大型船の陰に隠れて奇襲に向かった快速艇が沈められ、船員たちは海に投げ出されます。大型船にも砲弾が当たり航行できなくなり小型船を下して逃げ帰ります。何十人かの船員がオスマン帝国軍の兵士の待ち構える対岸に泳ぎ着きました。彼らは皆捕らえられ、殺されました。


<br> この奇襲の失敗によってコンスタンティノープルの金角湾の制海権は失われ、オスマン帝国軍は金角湾上を含めた三方からの砲撃が可能となりました。</p>



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<h4>再度総攻撃</h4>


<p style="line-height:200%"> オスマン帝国との交渉を、ピザンツ帝国側は絶ってしまったわけではありませんでした。戦争開始後も、交渉は続けられましたが、マホメッド2世の回答は、最初と同じ、「賠償金の支払いと皇帝以下重臣のコンスタンティノープルからの退去。それから町の引き渡し」のみでした。重臣たちにも、最早援軍の見込みはなく、受諾してはどうかと進言するものさえいました。しかし、誇り高い皇帝には、伝統ある町と民を捨てることなどできませんでした。この町が滅びる時に、自らも運命をともにしようと決めていたのでした。そして、このときまだ、ヴェネツィアを始めとした西欧からの援軍を期待していたのです。


<br> 5月7日に日没後、再び総攻撃が仕掛けられました。今度は、砲撃によって城壁の最も痛んだ箇所を徹底的に狙います。防衛隊の必死の防衛によって、ついにオスマン帝国軍の兵士が城壁を乗り越えることはできませんでした。壊れた城壁を直し防柵を立て直し、再度軍の編成をした11日夜。3度目の総攻撃をかけてきます。4時間にわたる激闘の末、ようやく退却させましたが、その被害は少なくなく、その刃はじわじわとコンスタンティノープルの喉元に迫っていました。


<br> マホメッド2世は兵士をがむしゃらに投入し続けていたのではありませんでした。城壁の下に向けて坑道を掘り、火薬を仕掛けて門を破壊しようとしてみました。堀を埋めて兵士の通路を作るために様々な作戦や兵器が投入されます。それらは守備隊の決死の努力によって水際で防ぐことができました。</h4>



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<h4>5月26日</h4>


<p style="line-height:200%"> 24日の満月の夜、月蝕が起こります。25日は雷雨に見舞われ、26日は5月の末にしては異例の強い霧が発生します。これらにコンスタンティノープルの人々は凶兆とささやきあい、神はコンスタンティノープルを見捨てたと噂しあいます。


<br> オスマン帝国軍の中でも和平派と主戦派の間で論争が沸き起こっていました。和平派の中心はカリル・バシャでした。50日を費やしてもコンスタンティノープルを陥落させることはできず、いつヴェネツィアの艦隊がやってくるか。それともハンガリーが協定を破っての陸軍を送ってくるか。そうなればオスマン帝国軍もコンスタンティノープルにばかりかかわっていられなくなる。和平派はキリスト教国がその腰を上げて攻め上げてくるのを恐れていました。


<br> 主戦派のザガノス・バシャらはキリスト教国が一致団結してコンスタンティノープルの救援に来るなどありえない。ヴェネツィア艦隊が到着したとしてもオスマン帝国の陸上部隊を相手にすることなど出来ない。この期に及んで撤退など論外である。これに、若い武将たちが賛同し、主戦派が勝利しました。


<br> マホメッド2世は、3日後の総攻撃を指示します。もはや、誰も反対する者はいませんでした。</p> 



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<h4>5月29日</h4>


<p style="line-height:200%"> 5月28日は砲撃も休み、兵士たちにしっかりと休息を取るように命じたマホメッド2世は、陣を回って兵を鼓舞し、彼らにコンスタンティノープルが陥落した暁には三日間だけ自由に略奪することを許します。


<br> 同日、コンスタンティノープルでは一日中教会の鐘は鳴り止みませんでした。夕刻には聖ソフィア大聖堂に市民たちが訪れ、最後のミサがおこなわれます。そこには皇帝を始めコンスタンティノープルの主だった人々が集まりました。


<br> キリスト教側の防衛隊の士気は決して衰えていませんでした。オスマン帝国側の士気も否応なく上がっていきます。双方、自らが信じる神の名において戦い抜く決意を固めていました。


<br> 翌29日夜半。総攻撃開始を告げるのろしが上がりました。


<br> 主力は最も城壁の損傷の激しい聖ロマノス軍門付近のメソティキシオン城壁でした。最初に投入されたのは同盟――というより支配下の国から集めた不正規軍団でした。彼らの中にはキリスト教徒も多く、内心嫌々ながら戦っており、士気は旺盛とは言えませんでした。しかし、彼らも逃げるわけにはいきません。敵に背を向けて逃げ出せば後ろで控えるトルコ兵の精鋭部隊イエニチェリ軍団に容赦なく斬り殺されてしまいます。


<br> 防衛隊も必死に防戦します。


<br> 2時間に渡る激戦の末、不正規軍団はようやく撤退することを許されます。しかし、防衛隊側にはほっと一息つく暇もありません。後方で出番を今か今かと待っていたイエニチェリ軍団に出撃命令が下ります。


<br> 一隊が退けられれば、一隊が攻め上げてくる。城壁に取り付き、飛び込んだトルコ兵を防衛隊が突き殺し、引き剥がす。新たな一隊が攻め上げるたびに、城壁に取り付くトルコ兵の数が増えていきます。


<br> 防衛隊は勇敢に戦い続けました。無限にも思えるトルコ兵を相手に戦い抜きます。しかし、ついに近郊が崩れる時がきました。戦闘開始から五時間。前線で指揮を執っていたジュスティアーニが負傷し、部下によって連れ出されます。指揮官不在となり、特に彼の直属の傭兵たちは浮き足立ち、もはやこれまでと逃げ出します。ジュスティアーニは運ばれた船の上で3日後に死亡します。


<br> 優秀な指揮官を失い防衛隊はパニックに陥ります。そして、一度始まった混乱はもはや収まりませんでした。ついに、イエニチェリ軍団が城門を破壊し侵入してきます。


<br> 兵たちを鼓舞するために聖ロマノス軍門へ向かった皇帝も、総崩れとなった防衛隊の姿を見て、もはやこれまでと悟ります。そして、群がってくる敵兵の中にマントを捨て、剣を抜き飛び込んで行きます。皇帝の忠実な従者たちがその後に続きました。</p>


 

<a name="co16"><br>

<h4>コンスタンティノープル最期の日</h4>


<p style="line-height:200%"> 一度総崩れが始まると、もはや留まることはできませんでした。何とか善戦していた別の城門も、オスマン帝国軍の城壁突破を知らせるのろしが上がると、もはやこれまでと崩れだし、次々と敵の侵入をゆるしてしまいます。敵兵に追われた彼らは唯一の逃げ場である金角湾を目指します。今は陸に上がり後宮付近の城壁で指揮を執っていたトレヴィザンも金角湾へ撤退を命じます。


<br> 市中にはオスマン帝国軍が溢れ戦利品を目指して略奪が始まります。金角湾内のヴェネツィアやジェノバの艦隊に見向きもせずに我先にと突き進んでいったため、船着場まで逃げ延びてきた人々は、なんとか船に乗り込むことができました。そして、船が安全な海上に逃れ、滅び行くピザンツ帝国に目をやり、何らかの想いを抱かずにはいられませんでした。


<br> しかし、その中に、トレヴィザン提督の姿はありませんでした。</p>


 


<p style="line-height:200%"> トルコ兵たちがなだれ込んできたコンスタンティノープルの市中では、略奪が始まりました。当初は、突入した兵士たちも、防衛隊の残存部隊を恐れて闇雲にキリスト教徒たちを惨殺しましたが、やがてそんなものはないことが分かると、奴隷として捕らえます。陥落時の死者は約4000人程度でした。数だけ見れば莫大でしたが数万の市民が虐殺されたような歴史を持つヨーロッパの都市陥落としては決して多いほうではありませんでした。


<br> マホメッド2世のもとに、皇帝の首を取ったという報告が入ります。首は陥落時に捕らえられたピザンツ帝国の重臣たちに見せられ、彼らはコンスタンティヌス11世の首だと証言します。最も重要な皇帝の死。それを確かめて、ようやく自分の物となったコンスタンティノープルの街を悠々と視察して回るスルタンの前に剣を抜いて飛び出してくる無謀な人間はいませんでした。</p>



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<h4>戦争終結後</h4>


<p style="line-height:200%"> コンスタンティノープルの陥落直後、宰相カリル・バシャがピザンツ帝国と内通したとの嫌疑をかけられ処刑されます。後任にザガノス・バシャが任じられオスマン帝国は皇帝の専制君主という新たな統治システムが確立されていきます。


<br> コンスタンティノープルは、その後、オスマン帝国の首都となり、イスタンブールと呼ばれるようになります。キリスト教会をイスラム教徒が住みやすいようにモスクに変え、荒廃していたコンスタンティノープルの復興を急ぎます。キリスト教徒に対してもある程度の信仰の自由を与え、文化事業にも熱心だったマホメッド2世は図書館や、学校などの建築をおこないます。


<br> 徹底抗戦を主張し、国旗を掲げてオスマン帝国軍と戦ったヴェネツィア居留区は大使と有力な貴族がマホメッド2世の命により殺されます。マホメッド2世は自分たちの敵となった者を決して許しませんでした。かといって、中立を守ったジェノバ居留区にしても、降服を命じられ、以後の居留区の自治はオスマン帝国の許可がなければ何も出来ない状態にされてしまったのです。ヴェネツィアもジェノバもコンスタンティノープルの陥落によって、人的にも経済的にも大きな損失を受けました。旧ピザンツ帝国の領土であった東地中海はオスマン帝国に席巻されます。さらに、さらに南下しエーゲ海にその勢力を伸ばそうとしたときの備えを急いで固め、同時にオスマン帝国と、これまで通りの通商ができるように交渉します。


<br> コンスタンティノープル攻略によって、マホメッド2世の評価は大きく変わります。西欧も、ピザンツ帝国も、若いスルタンを過小評価した報いを、これ以上ない形で受けたのでした。</p>



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<h4>マホメッド2世の征服事業</h4>


<p style="line-height:200%"> ピザンツ帝国の滅亡は中世と近世の一つの転換点とされます。マホメッド2世はこの戦いで大砲による真の威力に着眼し、それを効果的に有効に活用し、当時最も強固であったコンスタンティノープルの城壁を破壊します。もちろん、西欧は150年も前に大砲を実戦で使用していましたが、ある意味で単に巨大な炸裂音を轟かせるこけおどしの兵器に過ぎないものでした。西欧はこの新兵器の研究に力を入れ始め、同時に築城技術も対砲撃を想定し、砲撃の破壊力を弱めるような城壁の研究が拡がっていきました。


<br> マホメッド2世はこの後も、セルビア、ボスニアと次々に攻め落とします。その前に立ちはだかったのはハンガリーとポーランドでした。

<br> 63年までにはピザンツ帝国の残存勢力を一掃し、エーゲ海を南下していきます。70年にはヴェネツィアの海軍基地があるネグロボンテへ攻撃し、ヴェネツィアと10年以上に渡る戦争の戦端が開かれました。さらにペルシアに遠征し、ペルシア軍を敗走させます。75年に黒海、79年にバルカン半島を制圧し、勢力圏としたマホメッド2世はついに、イタリアに攻撃を仕掛けます。しかし、翌年、シリア、エジプト攻略の兵を進めていたマホメッド2世が急死。49歳の生涯を終えます。


<br> 征服王マホメッド2世の全ての征服事業が成功に終わったわけではありませんでした。しかし、マホメッド2世には征服した世界をしっかりと支配化に組み込むためのシステムを築き上げる時間がありました。オスマン帝国はこの100年後のスレイマン大帝の時代に最盛期を迎えます。その基礎を作りあげたのはマホメッド2世であり、その始まりはコンスタンティノープル攻略戦でした。





【参考書籍】