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歴史小話


コンスタンティノープル攻略戦〜1453年 戦闘の経過〜



395年にローマ帝国が東西に分裂して誕生したピザンツ帝国(東ローマ帝国)も、時の流れと共に衰退していき、この頃にはわずかな領土しか持たない一介の地方都市国家となっていました。逆に、14世紀の初めに勃興したオスマン帝国は拡大の一途をたどり、ヨーロッパに向けてその手を伸ばします。その巨大な相手にピザンツ帝国は最後の抵抗を試みます。


戦闘の経過


砲撃開始

4月12日。オスマン帝国軍の大砲が一斉に火を噴きました。69の砲門をそれぞれ15の砲兵隊に分けて城門に向けて撃つ部隊があれば、金角湾越しに撃つ部隊もあります。この砲撃は約50日間続き、3230トンもの砲弾が撃ちこまれました。城門は2日目には最大の砲によって5フィート(1.5メートル)もの穴を開けられます。コンスタンティノープル防衛隊は夜間は突貫で城壁を直しながら、オスマン帝国軍の砲に耐えました。


コンスタンティノープルの街は東に向けて角が突き出したような地形をしています。その突き出しから北に向けて金角湾と呼ばれる西北へと延びる湾によって守られていました。街の南にはマルマラ海が広がり、陸上から攻められるのは西側のトラキア側でした。オスマン帝国軍の主力も陸側のメソティキオン城壁に集中します。


海上の攻防は防衛隊側の優勢でした。数ではオスマン帝国海軍の方が多かったものの、ヴェネツィアやジェノバのような海洋国家のほうがその運用や操船能力において優れていました。12日の砲撃開始以後、海上で起きた戦闘ではオスマン帝国軍がコンスタンティノープル防衛隊に追いたてられて逃げ帰る光景もありました。


総攻撃開始最初の総攻撃が始まったのは4月18日。日没の2時間後でした。1週間に及ぶ砲撃で城壁はぼろぼろでした。そこに10万からの大軍の歓声が轟きます。防衛隊ジュスティアーニは冷静でした。大挙してくるオスマン帝国軍を確実に仕留めていきます。圧倒的兵力を投入しすぎたことでオスマン帝国軍は機敏に動くことが出なくなり格好の的になってしまっていました。4時間にわたる激闘の末、200人の死者を出し、オスマン帝国軍は兵を引かせました。防衛隊側に死者はなく、ひょっとすれば守りきれるのかもしれないという希望を抱くことができたのです。


4月20日 海戦――

マルマラ海を北上してくる4隻の船影をオスマン帝国艦隊とコンスタンティノープル防衛隊双方が認めました。それは、西欧からの援助物資を載せてやってきたジェノバの船と、事前にコンスタンティヌス11世が派遣していたピザンツ帝国の船でした。マホメッド2世はこの援助物資を沢山載せたこの帆船を捕獲することを命じます。


100隻ものオスマン帝国海軍が4隻の船に群がります。マホメッド2世もガラタの城壁近くの海岸に陣取り悠然と海戦見物を決め込みます。しかし、その顔が怒りで歪むまでそれほどの時間はかかりませんでした。海戦技術の違いをまざまざと見せ付けられたからです。


錨を下し、戦闘態勢を整えた4隻の船は大型の帆船でオスマン帝国海軍が出してきたのは櫂を漕いで動くガレー船でした。海戦に向かないとされていた帆船を、迎え撃ったオスマン帝国艦隊は出してこなかったからです。しかし、操船技術の未熟さで櫂が絡み合い身動きが取れなくなる場面が出てきます。そこを見計らって船の高いジェノバ船から石矢が降り注ぎます。


しかし、オスマン帝国側は数に置いて圧倒的に優勢でした。やがて、ピザンツ帝国の1隻が苦戦を強いられ始めます。オスマン帝国海軍の司令官は、鉄壁の防御を固めるジェノバの3隻は無視して、まずこの船を叩くことにします。それに気付いたジェノバの3隻がピザンツ帝国の帆船を護って固まります。あたかも海上の要塞の如き防衛陣形を取った4隻は、日が落ち始め、やがて風向きが北に変わったことを好機と金角湾へ向けて進みます。金角湾の入り口の防鎖が外され、ヴェネツィアの軍艦も出撃してきました。


日も暗くなったこともあり、新手の出現もあってオスマン帝国海軍の司令官は、引き上げを命じます。半日に及ぶ戦闘で、ぼろぼろになった4隻の船はようやく、安全な金角湾の港に接岸することができたのです。


マホメッド2世の奇策

わずか4隻の船に100隻からなる船がかかって取り逃がすという醜態にマホメッド2世は怒り狂います。しかし、決して豪胆なだけではない若きスルタンは早くも次の作戦を実効に移します。


それは、ボスボラス海峡のヨーロッパ側の陸地を通って船を運び、金角湾に直接送り込むという、度肝を抜く作戦でした。有り余る兵員と物資を動員して、地面を固め、木材を並べて軌道を作り、その上を巨大な船を渡します。その数は70隻にもなりました。金角湾の中には防衛隊の艦船もありますがオスマン帝国軍がジェノバ居住区の東から大砲を撃ち込み金角湾の防鎖の方にその眼を向けさせます。


4月22日。コンスタンティノープル防衛の監視兵はオスマン帝国の国旗を掲げた船が金角湾に次々に進水していくのを目撃します。それは、白昼夢でも見ているような出来事でした。コンスタンティノープルの東側から北西に広がる金角湾は、長年この街を護ってきた天然の城堀でした。それが今失われようとしていたのです。


防衛隊側も決してそれを黙認していたわけではありませんでした。浸水が完了する前に奇襲を仕掛け、焼き討ちすることに決めます。しかし、一旦24日の夜半決行を決めたにもかかわらず、奇襲は伸び伸びとなり28日になってしまいました。その間に、コンスタンティノープルのスルタンの内通者がその計画を知ってしまいます。そうとも知らず夜襲を決行した防衛隊側はオスマン帝国海軍の反撃を受けます。


出航した4隻の大型船の陰に隠れて奇襲に向かった快速艇が沈められ、船員たちは海に投げ出されます。大型船にも砲弾が当たり航行できなくなり小型船を下して逃げ帰ります。何十人かの船員がオスマン帝国軍の兵士の待ち構える対岸に泳ぎ着きました。彼らは皆捕らえられ、殺されました。


この奇襲の失敗によってコンスタンティノープルの金角湾の制海権は失われ、オスマン帝国軍は金角湾上を含めた三方からの砲撃が可能となりました。


再度総攻撃

オスマン帝国との交渉を、ピザンツ帝国側は絶ってしまったわけではありませんでした。戦争開始後も、交渉は続けられましたが、マホメッド2世の回答は、最初と同じ、「賠償金の支払いと皇帝以下重臣のコンスタンティノープルからの退去。それから町の引き渡し」のみでした。重臣たちにも、もはや援軍の見込みはなく、受諾してはどうかと進言するものさえいました。しかし、誇り高い皇帝には、伝統ある町と民を捨てることなどできませんでした。この町が滅びる時に、自らも運命をともにしようと決めていたのでした。そして、このときまだ、ヴェネツィアを始めとした西欧からの援軍を期待していたのです。


5月7日に日没後、再び総攻撃が仕掛けられました。今度は、砲撃によって城壁の最も痛んだ箇所を徹底的に狙います。防衛隊の必死の防衛によって、ついにオスマン帝国軍の兵士が城壁を乗り越えることはできませんでした。壊れた城壁を直し防柵を立て直し、再度軍の編成をした11日夜。3度目の総攻撃をかけてきます。4時間にわたる激闘の末、ようやく退却させましたが、その被害は少なくなく、その刃はじわじわとコンスタンティノープルの喉元に迫っていました。


マホメッド2世は兵士をがむしゃらに投入し続けていたのではありませんでした。城壁の下に向けて坑道を掘り、火薬を仕掛けて門を破壊しようとしてみました。堀を埋めて兵士の通路を作るために様々な作戦や兵器が投入されます。それらは守備隊の決死の努力によって水際で防ぐことができました。


5月26日

24日の満月の夜、月蝕が起こります。25日は雷雨に見舞われ、26日は5月の末にしては異例の強い霧が発生します。これらにコンスタンティノープルの人々は凶兆とささやきあい、神はコンスタンティノープルを見捨てたと噂しあいます。


オスマン帝国軍の中でも和平派と主戦派の間で論争が沸き起こっていました。和平派の中心はカリル・バシャでした。50日を費やしてもコンスタンティノープルを陥落させることはできず、いつヴェネツィアの艦隊がやってくるか。それともハンガリーが協定を破っての陸軍を送ってくるか。そうなればオスマン帝国軍もコンスタンティノープルにばかりかかわっていられなくなる。和平派はキリスト教国がその腰を上げて攻め上げてくるのを恐れていました。


主戦派のザガノス・バシャらはキリスト教国が一致団結してコンスタンティノープルの救援に来るなどありえない。ヴェネツィア艦隊が到着したとしてもオスマン帝国の陸上部隊を相手にすることなど出来ない。この期に及んで撤退など論外である。これに、若い武将たちが賛同し、主戦派が勝利しました。


マホメッド2世は、3日後の総攻撃を指示します。もはや、誰も反対する者はいませんでした。


5月29日

5月28日は砲撃も休み、兵士たちにしっかりと休息を取るように命じたマホメッド2世は、陣を回って兵を鼓舞し、彼らにコンスタンティノープルが陥落した暁には3日間だけ自由に略奪することを許します。


同日、コンスタンティノープルでは一日中教会の鐘は鳴り止みませんでした。夕刻には聖ソフィア大聖堂に市民たちが訪れ、最後のミサがおこなわれます。そこには皇帝を始めコンスタンティノープルの主だった人々が集まりました。


キリスト教側の防衛隊の士気は決して衰えていませんでした。オスマン帝国側の士気も否応なく上がっていきます。双方、自らが信じる神の名において戦い抜く決意を固めていました。翌29日夜半。総攻撃開始を告げるのろしが上がりました。


主力は最も城壁の損傷の激しい聖ロマノス軍門付近のメソティキシオン城壁でした。最初に投入されたのは同盟――というより支配下の国から集めた不正規軍団でした。彼らの中にはキリスト教徒も多く、内心嫌々ながら戦っており、士気は旺盛とは言えませんでした。しかし、彼らも逃げるわけにはいきません。敵に背を向けて逃げ出せば後ろで控えるトルコ兵の精鋭部隊イエニチェリ軍団に容赦なく斬り殺されてしまいます。


2時間に渡る激戦の末、攻撃側の不正規軍団はようやく撤退することを許されます。しかし、防衛隊側にはほっと一息つく暇もありません。後方で出番を今か今かと待っていたイエニチェリ軍団に出撃命令が下ります。


防衛隊は必死に応戦しますが、一隊が退けられれば、一隊が攻め上げてくる。城壁に取り付き、飛び込んだトルコ兵を防衛隊が突き殺し、引き剥がす。新たな一隊が攻め上げるたびに、城壁に取り付くトルコ兵の数が増えていきます。


防衛隊は勇敢に戦い続けました。無限にも思えるトルコ兵を相手に戦い抜きます。しかし、ついに近郊が崩れる時がきました。戦闘開始から五時間。前線で指揮を執っていたジュスティアーニが負傷し、部下によって連れ出されます。指揮官不在となり、特に彼の直属の傭兵たちは浮き足立ち、もはやこれまでと逃げ出します。ジュスティアーニは運ばれた船の上で3日後に死亡します。


優秀な指揮官を失い防衛隊はパニックに陥ります。そして、一度始まった混乱はもはや収まりませんでした。ついに、イエニチェリ軍団が城門を破壊し侵入してきます。


兵たちを鼓舞するために聖ロマノス軍門へ向かった皇帝も、総崩れとなった防衛隊の姿を見て、もはやこれまでと悟ります。そして、群がってくる敵兵の中にマントを捨て、剣を抜き飛び込んで行きます。皇帝の忠実な従者たちがその後に続きました。


コンスタンティノープル最期の日

一度総崩れが始まると、もはや留まることはできませんでした。何とか善戦していた別の城門も、オスマン帝国軍の城壁突破を知らせるのろしが上がると、もはやこれまでと崩れだし、次々と敵の侵入をゆるしてしまいます。敵兵に追われた彼らは唯一の逃げ場である金角湾を目指します。今は陸に上がり後宮付近の城壁で指揮を執っていたトレヴィザンも金角湾へ撤退を命じます。


市中にはオスマン帝国軍が溢れ戦利品を目指して略奪が始まります。金角湾内のヴェネツィアやジェノバの艦隊に見向きもせずに我先にと突き進んでいったため、船着場まで逃げ延びてきた人々は、なんとか船に乗り込むことができました。そして、船が安全な海上に逃れ、滅び行くピザンツ帝国に目をやり、何らかの想いを抱かずにはいられませんでした。しかし、その中に、トレヴィザン提督の姿はありませんでした。


トルコ兵たちがなだれ込んできたコンスタンティノープルの市中では、略奪が始まりました。当初は、突入した兵士たちも、防衛隊の残存部隊を恐れて闇雲にキリスト教徒たちを惨殺しましたが、やがてそんなものはないことが分かると、奴隷として捕らえます。陥落時の死者は約4000人程度でした。数だけ見れば莫大でしたが数万の市民が虐殺されたような歴史を持つヨーロッパの都市陥落としては決して多いほうではありませんでした。


マホメッド2世のもとに、皇帝の首を取ったという報告が入ります。首は陥落時に捕らえられたピザンツ帝国の重臣たちに見せられ、彼らはコンスタンティヌス11世の首だと証言します。最も重要な皇帝の死。それを確かめて、ようやく自分の物となったコンスタンティノープルの街を悠々と視察して回るスルタンの前に剣を抜いて飛び出してくる無謀な人間はいませんでした。


戦争終結後

コンスタンティノープルの陥落直後、宰相カリル・バシャがピザンツ帝国と内通したとの嫌疑をかけられ処刑されます。後任にザガノス・バシャが任じられオスマン帝国は皇帝の専制君主という新たな統治システムが確立されていきます。


コンスタンティノープルは、その後、オスマン帝国の首都となり、イスタンブールと呼ばれるようになります。キリスト教会をイスラム教徒が住みやすいようにモスクに変え、荒廃していたコンスタンティノープルの復興を急ぎます。キリスト教徒に対してもある程度の信仰の自由を与え、文化事業にも熱心だったマホメッド2世は図書館や、学校などの建築をおこないます。


徹底抗戦を主張し、国旗を掲げてオスマン帝国軍と戦ったヴェネツィア居留区は大使と有力な貴族がマホメッド2世の命により殺されます。マホメッド2世は自分たちの敵となった者を決して許しませんでした。かといって、中立を守ったジェノバ居留区にしても、降服を命じられ、以後の居留区の自治はオスマン帝国の許可がなければ何も出来ない状態にされてしまったのです。ヴェネツィアもジェノバもコンスタンティノープルの陥落によって、人的にも経済的にも大きな損失を受けました。旧ピザンツ帝国の領土であった東地中海はオスマン帝国に席巻されます。さらに、さらに南下しエーゲ海にその勢力を伸ばそうとしたときの備えを急いで固め、同時にオスマン帝国と、これまで通りの通商ができるように交渉します。


コンスタンティノープル攻略によって、マホメッド2世の評価は大きく変わります。西欧も、ピザンツ帝国も、若いスルタンを過小評価した報いを、これ以上ない形で受けたのでした。


マホメッド2世の征服事業

ピザンツ帝国の滅亡は中世と近世の一つの転換点とされます。マホメッド2世はこの戦いで大砲による真の威力に着眼し、それを効果的に有効に活用し、当時最も強固であったコンスタンティノープルの城壁を破壊します。もちろん、西欧は150年も前に大砲を実戦で使用していましたが、ある意味で単に巨大な炸裂音を轟かせるこけおどしの兵器に過ぎないものでした。西欧はこの新兵器の研究に力を入れ始め、同時に築城技術も対砲撃を想定し、砲撃の破壊力を弱めるような城壁の研究が拡がっていきました。


マホメッド2世はこの後も、セルビア、ボスニアと次々に攻め落とします。その前に立ちはだかったのはハンガリーとポーランドでした。


マホメッド2世は63年までにはピザンツ帝国の残存勢力を一掃し、エーゲ海を南下していきます。70年にはヴェネツィアの海軍基地があるネグロボンテへ攻撃し、ヴェネツィアと10年以上に渡る戦争の戦端が開かれました。さらにペルシアに遠征し、ペルシア軍を敗走させます。75年に黒海、79年にバルカン半島を制圧し、勢力圏としたマホメッド2世はついに、イタリアに攻撃を仕掛けます。しかし、翌年、シリア、エジプト攻略の兵を進めていたマホメッド2世が急死。49歳の生涯を終えます。


征服王マホメッド2世の全ての征服事業が成功に終わったわけではありませんでした。しかし、マホメッド2世には征服した世界をしっかりと支配化に組み込むためのシステムを築き上げる時間がありました。オスマン帝国はこの100年後のスレイマン大帝の時代に最盛期を迎えます。その基礎を作りあげたのはマホメッド2世であり、その始まりはコンスタンティノープル攻略戦でした。





【参考書籍】