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歴史小話


フランシス・ドレークの世界周航


フランシス・ドレーク(1540年? 〜1596年)は16世紀イングランドの航海者です。1588年にスペインの無敵艦隊がイングランドに迫った際、イングランドの実質的な指揮官としてイングランドの防衛に全力を注ぎました。そのドレークの最大の偉業は1577年から1580年にかけて行われた、世界で2番目の(指揮官が生きて帰国した初めての)世界周航でした。

ドレークによる無敵艦隊撃破については、歴史の転換点〜アルマダの海戦〜のページでも記したとおりです。ドレークはそれ以前から、イングランドの忠実な臣民としてスペインの商戦や植民地の沿岸都市を襲い、エル・ドラケ(悪魔の権化)と呼ばれて恐れられていました。1570年ごろから、1570年代の後半にかけては、スペインとイングランドの関係は均衡を保っていましたので、ドレイクの行為は海賊行為にほかなりませんでしたが、イングランド女王エリザベスも、その行為を黙認し、時には公然と支援していました。

私掠行為の大成功により、ドレイクの名はイングランドでも有名になっていました。様々な人脈を得て、いまや、かねてより計画していた、太平洋をイングランドの艦隊で渡るという壮大な夢を実現する時が来たことを確信していました。ドレイクが35歳の時でした。イングランドとスペインの間での緊張が高まっていた時期でしたので、イングランドは海洋の探検を急いでいました。そういった背景もあり、ドレイクの野心的な計画は実行に移されることになりました。

この航海の命令文書や出資者たちのリストは見つかっていますが、その損傷はひどく、この航海の様々な謎に答えられるものではないそうです。いずれにせよ、ドレイクの前歴から、相当の利益を生むであろうことはみな承知していました。

ドレイクはその計画の当初、アレクサンドリアに向かうと乗務員たちにも伝えていたとされます。1577年11月15日に、ペリカン号(のちに、ゴールデン・ハインド号と改名)を旗艦とする5隻、総員164名の乗組員からなっていました。そのなかで世界周航を成し遂げたのはペリカン号のみでした。現在となっては、ペリカン号の詳細は分かっていませんが、140トンに満たない、16世紀としても小規模な3本マストのガリオン船でした。前甲板が低く、後甲板が高かったので、正面から見ると不安定に見えました。両舷には7門、船尾に2門の9ポンド砲を据え付け、ほかにも小さな砲が多数持ち込まれていました。

出向してすぐに、暴風雨にぶつかり、深い損傷を負ったため、出向わずか13日でプリマスに戻るという幸先の悪い船出でしたが、12月13日に再度、船を出します。この航海は、とても長く、危険に満ちたものでした。赤道を越え、乗組員たちは生まれて初めて経験するスコールに恐怖しました。熱帯圏に住む奇妙な鳥や、見たことのない魚は迷信深い船員にさらなる不安を与えました。

航海の中、ドレークは様々な場面で厳しい決断をしなければなりませんでした。はぐれた船を放棄する決意をし、自分の意に添わなかった船員に厳しい罰を与えなければなりませんでした。その中には、宮廷人であり計画の実現に尽力したトマス・ドーティの名もありました。ドーティは、世界周航の計画を事前に知らされておらず、ドレイクへの不信を持っていました。そして、同様にドレークに不信を抱いていた一部船員を扇動してドレークからその権限と地位を奪い取ろうと画策していました。乗組員たちが次第にその士気を失っていく中、これ以上放置できないと感じたドレークはドーティを処断することに決めます。その場所は、かつてマゼランが世界周航をした際にも、反逆者を処刑した孤島でした。そこで全員を集めて法廷を開き、40人の陪審員を決めて、証人に証言をさせます。被告にもその申し開きの機会が与えられました。陪審員はドーティの行為を死刑に値すると断じ、ドレークはドーティに慣例に従って、「この孤島に置き去りにされるか、この場で処刑されるか、鎖につながれ本国で枢密院の裁きを受けるか」選ぶように伝えました。ドーティは処刑されることを選び、翌日、処刑されました。今となっては十分な資料もなく、ドーティの罪がどの程度のものであったのかはうかがい知ることはできないとされます。ドレークにとってはドーティは友人であり、その決断は苦渋のものでしたが、航海を成功させるにはドーティの存在はとても危険であるという判断がそこにはあったのでしょう。ドレークは胴体から切り落とされた首を拾い上げ、「見よ。これが反乱者の末路だ」と叫びました。そして、ドーティに加担した者についてはすべてを赦し、これ以上の罰を与えないことを約束しました。

このとき、新しい規則を決めました。それは、全士官をその任から下ろすというものでした。彼らは抗議しましたが、ドレークはその決定を翻しませんでした。ドレークは、平船員と宮廷人の垣根を払い、水夫もジェントルマンも等しく帆綱を引くように求め、彼らもそれを受け入れることを誓い、ペリカン号は島を後にしました。1578年8月のことでした。

そしていよいよその3日後、いよいよマゼラン海峡に乗り込みます。ドレークは出資者であり、友人でもある、クリストファ・ハットン卿を称え、船名もゴールデン・ハインド号と改めます。そして、沿岸の諸都市を攻撃し、大量の宝を積んだスペイン船を拿捕しながら、大西洋を抜け、太平洋へと入っていきます。

この航海の最大の難関は1580年1月に西回り航路での帰国の途についていたゴールデン・ハインド号にインド洋で起きた座礁でした。暗礁に乗り上げ右舷が傾いており、体勢を立て直そうとしましたが、うまくいきませんでした。いくつかの大砲を捨てるなどしましたが、まったくの無駄でした。皆が船が海の藻屑と消えるのも時間の問題だと思う中、ドレークは積み荷を捨てることを拒否し、敗北を受け入れませんでした。しかし、24時間ののち、潮が満ちてきてあっけなく危機から脱することができたのでした。

この危機の間、「ドーティを処刑したがために神の怒りを買ったのだ」と騒ぎ立てた牧師がいました。ドレークは、安全に航海できるようになってから、牧師を厳しく叱責し、破門に処しました。俗人が教会から認可された牧師を破門するというのは信じられないことでしたが、船の最高責任者である船長として、臆病ものは決して赦すわけにはいかなかったのでした。数日後に牧師は早々に希望を失い神への不信を口にしたことを懺悔し、その職に戻されました。

6月15日に喜望峰を回り、9月26日に堂々帰国したゴールデン・ハインド号でしたが、歓喜の声で迎えてくれるはずのイングランド国民の姿はありませんでした。予定ではその日は月曜日だったのですが日付変更線の関係で1日消滅し、国民は日曜日の礼拝のために教会へと行っていたのでした。

このとき、持ち帰った財宝は莫大な量にのぼり、出資者たちは4700%という高額な配当金を手に入れることができたのです。女王はリッチモンドの宮殿で6時間にもわたり謁見し詳しい航海の話を聞きました。さらに、ゴールデン・ハインド号で行われた華やかな式典を訪れたエリザベス女王は、ひざまずいたドレークの首元に剣を当て、「スペインはあなたの首をほしがっています」と首を切る真似をした後、騎士(サー)の位を与えました。

スペイン大使はドレークが奪った財宝の返還を求めましたが女王はしらばっくれて財宝をロンドン塔へ隠しました。その金は、後のアルマダの海戦の軍資金となりました。もしもこの軍資金がなかったなら、イングランドは国民からもっと厳しい税をとりたてて軍資金に充てなければならず、後の歴史も変わっていたのかもしれません。


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