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歴史小話


五稜郭は時代遅れの要塞だった



五稜郭は、幕府が北方警備のために函館に築いた日本で初めての西洋式稜堡要塞でした。函館は1854年(安政元年)に日米和親条約の締結によって開港されましたが防衛の強化から弁天崎に砲台が取り付けられ、同時に外国人の居留地の拡大に伴い役所の安全のために内地の亀田への移転が決まったものでした。洋学者の武田斐三郎(あやさぶろう 1827年〜1880年)がフランス軍人の指導を受けて設計したもので、1864年に完成しました。戊辰戦争が起こると、1868年に幕府方で最後まで抵抗を続ける榎本武揚(1836年〜1908年)、土方歳三(1835年〜1869年)などによって占領され、戊辰戦争の最後の舞台になりましたが、1869年に降伏します。現在は史跡公園として整備され、特徴である星形の城壁、堀が残っています。

しかし、五稜郭が造られた当時、稜堡要塞はすでに時代遅れのものになっていました。15世紀の火砲の発達以降、様々な築城方式が考案されました。稜堡要塞は、火砲による攻撃に弱かった中世の城郭に、砲弾の衝撃を吸収しやすい低い土工建築物で広く補強され、そこには反撃用の大砲が据え付けられました。砲を撃つのに邪魔になる高い城壁は取り除かれ、低い城郭が主流になっていきました。当初応急的に導入された稜堡要塞は、強固な要塞としてその後300年にわたり進化を続けました。フランスではヴォーバン(1633年〜1707年)によって完成された稜堡要塞を至上のものと称えられました。

ところが、ヴォ―バンの築城方法をもって至上のものとしてしまったため、その後のフランスの築城方式は停滞することになります。ヨーロッパの築城方式の主流は19世紀にドイツで発展した多角形形式で築城された要塞へと変化していました。火力の進歩は、一度侵入されると弱いという稜堡要塞の欠点をあらわにしていました。ヨーロッパの築城が多角形式に変化していく中、フランスが稜堡要塞に見切りをつけるのは1870年のフランス−プロイセン戦争以後でした。

弁天砲台、五稜郭の設計を担当した武田斐三郎は、緒方洪庵に師事し、蘭学を学びました。当時第一級の西洋の知識に通じていた人物でしたが斐三郎が学んだ蘭学は少し遅れたものであった可能性は否めません。さらに幕府は極めてフランスと近い関係を結んでいました。武田斐三郎が指導を受けたフランス軍人も、おそらくまだ、稜堡要塞の知識しかもっていなかったのでしょう。そういった事情から、五稜郭は少し時代遅れになっていた稜堡要塞になったのでしょう。また、防衛上、五稜郭と同様の要塞をいくつか築城して砲台を据え付けて完成となる予定でしたが、財政上の問題から、すべての火砲を五稜郭に集めることになりました。五稜郭は、その防衛思想から、決して完成された要塞ではありませんでした。

明治28年に、港を拡充するために五稜郭は破壊されました。しかし、その造りはとても頑丈で、その破壊には4年もの歳月を要すことになり、改めて幕末の技術力の高さを知らしめることとなりました。




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