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歴史小話


イッソスの会戦〜紀元前333年 時代背景〜



紀元前336年にフィリッポス2世が他界し、その後を継いだアレクサンドロスが即位します。後に大王と呼ばれるようになるアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)は、父の意思を継いでペルシア侵攻の兵を挙げます。建国以来、古代ギリシア世界に直接的に間接的に影響力を行使してきた大国ペルシアの楔を断ち切ろうとしたのです。フィリッポス2世がその最終目的をどこに置いていたのか分かりませんが、アレクサンドロス大王によってアケメネス朝ペルシアは滅ぼされます。


時代背景

アレクサンドロス即位

その日――。紀元前336年のその夏の日は、マケドニアにとって、とてもめでたい日でした。マケドニア王フィリッポス2世の娘・クレオパトラの結婚の日だったからです。度重なる激戦を耐え抜いてきた王は満身創痍で、戦場で片眼も失っていました。しかし、集まった民衆の前では決して弱い面を見せず痛みなどないかのように毅然と振舞っていました。それは誰も予期しない突然の出来事でした。クレオパトラと共に祭壇へと向かっていたフィリッポス2世は、護衛の若い貴族によって刺し殺されてしまったのです。享年46歳。あまりにもあっけない死でした。


そうなると、多聞にもれずお家騒動が巻き起こります。今やマケドニア王はペルシア王に次ぐ権力者でしたが、それは類まれな王の実力によって得られたもので、マケドニア国内では有力貴族たちによる権力闘争が起こり、おそらくアレクサンドロス以外の誰が王になってもそういった有力貴族による傀儡政権ができただけだったでしょう。かつて、有力な指導者であったエパメイノンダスが死んだ途端、没落の道を歩んだテーバイのようになったのかもしれません(カイロネイアの会戦・ポリスの衰退の章を参照)。フィリッポス2世ははっきりと後継者を指名しておらず、マケドニア国内では何人かの王候補の名前が上がりました。王は生前、アレクサンドロスを後継者にする意向は示しており、カイロネイアの会戦では最も重要な一軍を任せ、17歳で摂政として自身が戦争で国を空けるときは、内政を任せていました。それらの実績により、マケドニア国内におけるアレクサンドロスの人気は高く、また、パルメニオンやアンティパトロスのような父王の時代から多くの戦功を上げ、全幅の信頼を置かれていた将軍が、アレクサンドロスの力強い味方となり、彼を支えたことで反対勢力による混乱もほとんどなく、王位は移行したのでした。


戴冠して2日後に、フィリッポス2世を殺害した護衛と、その首謀者として従兄弟のアミュンポス、他3名の貴族を処刑します。


古代ギリシア世界の混乱とアレクサンドロスの再統治

ポリスの主だった都市はマケドニアの支配下か影響下にありましたが、その多くがフィリッポス2世の死を知ると離反すべく動き出します。マケドニア北部のイリュリアやトラキア、南のテッサリアなどでも、反マケドニアの勢力が台頭し、混乱が始まります。アレクサンドロスはこの平定のために国中を走り回らなければなりませんでした。


この間にアテナイがテーバイに接近してきます。カイロネイアの借りを返すのは今だと。たかだか二十歳ほどの若造に何ができようか? 今のマケドニアなどは恐れるに足らず、と。さらに、ペルシアのダレイオス3世も、主要なポリスに使者を送りペルシアと同盟を結べば資金も軍事力も援助をしようとささやきかけます。マケドニアとギリシアを争わせて、マケドニアのペルシア侵攻計画を止めようとしたのでした。表立って、この話に乗ったのはスパルタのみでしたが、非公式には多くのポリスの政治家たちがペルシアから賄賂を受け取り、その金を反マケドニアに扇動する軍資金としたのでした。


そして、ついにテーバイで反乱がおきました。駐屯していたマケドニアの守備隊をテーバイの軍が包囲し、反乱の意思を示したのでした。


この知らせがアレクサンドロスの耳に入ったとき、マケドニアの北部にいました。テーバイのみならとにかく、テーバイ、アテナイ、さらにスパルタまで同盟を組んで挑んでくれば、時間をとられ、国力をそがれることになりかねません。一刻も早くテーバイを制圧しなければなりませんでした。しかし、今いるマケドニア北部からテーバイまで約480キロもの距離があり、山岳地帯が続きました。普通に行けば3週間はかかる距離を、アレクサンドロスは強行軍でテーバイまで向かい、わずか13日で国境までたどり着きました。しかも、通常の通るべきルートは全て避けて進んだのでテーバイの前哨部隊さえ、アレクサンドロスの行動を掴むことができませんでした。


テーバイの町を包囲したアレクサンドロスは降伏の機会を与えますが、テーバイ側はその回答として、人質のマケドニアの守備兵の一部を惨殺しました。


アレクサンドロスは躊躇せず、市内に兵を入れ、テーバイの町を徹底的に破壊し、数千人の市民を惨殺し、三万人の市民を奴隷にして売り払いました。後に、アレクサンドロスはテーバイを破壊したことに後悔を感じてはいたようでしたが、諸ポリスに対する恫喝としてはこれ以上ない成果ではありました。アレクサンドロスに逆らえばどうなるか明らかになったのですから。その結果は、すぐに出ました。アテナイは使者を送り、講和を願い出ます。アレクサンドロスはアテナイの反アレクサンドロスの指導者を追放することで一応の矛を収めたのでした。


大国ペルシアに挑む

いよいよ、大国ペルシアへ挑むための足元固めは終わりました。マケドニアに諸ポリス監視のために1万2千の歩兵と千5百の騎兵をアンティパトロスに預け、3万6千の兵を160隻の船に乗せて、長い長い旅へと出発しました。


アケメネス朝ペルシアは既に建国から2世紀が過ぎていましたが、その国力はマケドニアとは比較にならないほど強大で、ダレイオス3世の富は無尽蔵でした。しかし、ペルシアは多種多様な民族からなる国家で、ペルシアの王と、支配者層の貴族たちの下に、様々な民族が連なっていました。彼らがペルシア王に庇護を受け、その対価として納税をしていました。逆に言えば、両者の関係はそれ以上のものではなく、帝国の力が一旦弱まればすぐさまその支配下から離れようとするのは必然でした。また、広大なペルシア帝国を統治するために、州に分けられ、それぞれを王によって任命された太守が統治していました。太守たちは自分の州以外の事にあまり関心を払わず、フィリッポスやアレクサンドロスの行動を戦略的に分析する視点に欠けていました。ペルシアの国力を考えたとき、マケドニアのわずかな兵力など、どれほどのものかと侮っていました。何より、ペルシア軍の諸兵力は隷下の民族から差し出された徴募兵で、その錬度も装備も、マケドニアのそれとは比べ物にならないほど劣悪で、士気も全く上がらなかったのでした。


フィリッポス2世のころに、先発隊を送り、小アジアの一部を制圧し、拠点を確保していました。ダーダネルス海峡を渡った、アレクサンドロスはその場で船を焼き、ペルシアを制圧するまでは帰国しないという決意を兵たちに示し、また兵たちの退路を奪うことで否応にも死に物狂いになるように仕向けました。さらに、ペルシアの西、フリュギアへと向かう途中でトロイア戦争の都、トロイアへと向かいました。マケドニア軍に戦いの女神アテナも味方するという神託を受け、神殿に自らの鎧を女神へ捧げました。さらに、神殿に収められていた英雄アキレスが使ったとされる鎧と盾を受け取り、必勝を誓います。


ペルシア側ではこの地方の司令官が集まり、対マケドニア軍への対応を協議していました。しかし、その対応は遅れていました。軍を指揮するのはロードス島出身の名将メムノンでした。メムノンは妻パルシネを伴い、マケドニアの宮廷を何度か訪れたことがあり、アレクサンドロスとも面識がありました。メムノンはマケドニア軍の強さも、弱点もよく知っていました。もしも、マケドニア軍と正面からぶつかったとしても、自分が担当している地域の部隊のみでは勝利は難しい。しかし、マケドニア軍の金庫と食料庫は尽きかけており、現地調達ができなければ撤退をするしかないと考えました。


メムノンは現地の畑を焼き払いますが、アレクサンドロスの的確な指示によって素早く食料の確保がなされたことで大した成果を上げることができませんでした。メムノンは腹を決め、マケドニア軍との決戦に挑みます。


グラニコス河の会戦

マケドニアの東征軍がヘレスポントス(ダーダネルス海峡)を超えてから3日。両軍はグラニコス河(今日のトルコのコカパス川)を挟んで対峙します。


東岸には、ペルシア軍が用意した3万9千の精鋭部隊(その中にはギリシアの傭兵が2万人以上含まれていました)は、グラニコス河の岩だらけの岸沿いに布陣します。この時、メムノンが選んだ陣形は、2.5キロほどの前線沿いの全ての尾根と丘を占拠し、弓兵と投げ槍器を配備します。


5千の騎兵が、河を渡り上がってこようとする敵兵を突き殺そうと待ち構えます。歩兵はその後方に立ちますが、これは、ペルシア軍にとって致命的なミスになりました。騎兵を最前線に、歩兵を後方に配置するという奇妙な陣形に関して、歴史家は様々な説を唱えますが、結論は出ていません。


ヘレスポントスを渡ってから三日。西岸に歩兵1万3千。騎兵5千のマケドニア軍が到着します。残りの部隊を後方に残し、マケドニア軍に新たな脅威が迫っていないか、備えさせます。マケドニア軍は進軍の速度を緩めて、ペルシア軍が河を渡り攻撃してくるのを待ちますが、ペルシア軍は一向に動く気配を見せませんでした。


マケドニア軍はトルコのうだるような夏の暑さと、夜の寒さ。さらに、3日に渡る強行軍のため疲労困憊していました。その兵たちに、アレクサンドロスは、グラニコス河を渡り、ペルシア軍に攻撃を仕掛けるように命じます。しかし、グラニコス河は川幅も広く、流れも急でした。ましてや、その後、世界最強のペルシア軍と渡り合わなければなりません。副官のパルメニオンは一晩休息をとることを提案しますが、「ヘレポントスを渡った我々にとって、グラニコスのような小川が、何の障害になろうか?」と取り合いませんでした。


アレクサンドロスは右翼のマケドニア騎兵を率い、右翼にテッサリア騎兵を配置し、パルメニオンに指揮させました。中央にはマケドニアの重装歩兵が構えます。アレクサンドロス率いるマケドニア騎兵は川の流れに従って下流へ向かいながら、陣形を整え始めていました。残りの部隊もそれに続き、左翼の騎兵は川の流れに逆らい留まることで陣形が組み立てられます。


先陣をきってペルシア軍側の岸に向かう部隊に矢と投げ槍の歓迎が待っていました。グラニコス河の急流に逆らいながら前進していた部隊はペルシア軍の格好の的となってしまいました。対岸に上陸した兵たちも分断させられ、ペルシア兵に殺害されました。しかし、マケドニア軍を迎え撃つために不用意に前進したペルシア軍の歩兵・弓兵たちは敵の部隊を壊滅させたことで浮かれ、持ち場に戻るのを怠っていました。密集した布陣には気付かぬうちに綻びができていました。


アレクサンドロスはその間隙を見逃しませんでした。アレクサンドロス率いる騎兵部隊が急流に逆らいながら突撃を仕掛けます。前線のペルシア騎兵と真っ向からぶつかり合いました。アレクサンドロスの抹殺を戦闘の最終目的と定めていたメムノンの指示に従い、アレクサンドロスを取り囲んだペルシア兵は、後一歩のところまで刃を近づけますが、救援に駆けつけたマケドニアの戦士によって目的は果たせませんでした。


ついにペルシア騎兵を貫いたマケドニア騎兵はすぐさま旋回し、置かれたままになっていた歩兵部隊に攻撃を仕掛けます。ついにペルシア兵たちは退却を始めます。不運だったのはギリシア人からなる傭兵部隊でした。彼らは、重い鎧のために逃げるに逃げられませんでした。戦場で孤立した傭兵部隊は降伏を願い出ますが、祖国に対する裏切りに対する罪として、アレクサンドロスはこれを許さず徹底的に攻撃しました。数千の傭兵が虐殺され、かろうじて生き残った2千の傭兵は全員が祖国に送り返され、強制労働に従事することになりました。テーバイの時と同様に裏切り者は決して許さないという姿勢を見せ付けたのでした。


マケドニア側の戦死は百数十人ほどと少なく、その犠牲者のほとんどは先遣部隊の兵たちでした。ペルシア側の戦死者は千を超え(一説では2万以上)、メムノンも辛くも逃げ延びました。


マケドニアの戦死者が異常に少ないことで、アレクサンドロスのプロパガンダを疑う向きもありますが、正確な史料の少ないこの時代の戦闘なのでやむを得ません。しかし、後の戦闘の歴史を見ても、勝者と敗者の損害の間に信じられないほどの大差が付くことは、ままあります。


メムノン死去

グラニコス河の会戦の勝利によって、小アジアのペルシアの行政機構は麻痺し次々と都市や要塞を制圧し、そのおかげでマケドニア軍の戦費は大分楽になりました。といっても、行過ぎた略奪を働いたわけではなく、重要な地位にマケドニア人やギリシア人を配置するのみでの統治機構もそのまま残していました。アレクサンドロスの評判と人気は民衆の間でとても高く、この地方をあまり重視せず、それほど重用もしてこなかったペルシア王の威厳などあっさりと吹き飛んでしまい、彼らはペルシア王に支払っていた税をアレクサンドロスに支払うことに同意したのでした。


しかし、ペルシア艦隊がミュカレを本拠地に集結し、沿岸の諸都市への本格的な支援を開始すると、マケドニア軍も苦戦を強いられます。ミレトスでは、ペルシア海軍に追い込まれる形でマケドニア艦隊は港内に封じられました。しかし、マケドニア艦隊は港内で頑張りペルシア艦隊のミレトスへの補給を防ぎ、短期間で落とすことに成功します。しかし、海上戦においてはペルシアの海軍の方が優勢であることも思い知ることになりました。ダーダネルス海峡を渡った後に船を焼いてしまったマケドニア軍はアテナイの艦隊を中心にしたわずかな海上戦力しか持っていなかったからです。


その後のハリカルナッソスの町を取り囲んだマケドニア軍は、メムノン自身が兵を率いるペルシア軍に、徹底的に抵抗を受けました。海上からの支援を何の抵抗もなく受けることができたペルシア軍は最後まで果敢に戦いました。しかし、犠牲を出しながらも、怯まずに攻撃を続けたマケドニア軍はついにハリカルナッソスを攻め落としました。


さらに内陸へと向かっていくアレクサンドロスは、ゴルディオンのゼウス神殿で有名な事件を起こします。紀元前333年4月のことでした。そこにはいつの頃からか、荷車が置かれていました。その木製の荷車は奇妙な結び目で頸木とつながれ、それを解くことができた者は、全アジアの王となることが出来ると言い伝えられておりました。アレクサンドロスは自分がそれを解けるかどうか試してみようと、その神殿を訪れました。ミズキの樹皮でできたその結び目は複雑で、どこから始まりどこで終わるのか分からないようなものでした。ターバンの飾り結びと呼ばれるものでした。アレクサンドロスはそれをしばらく眺めてから、剣を抜いて結び目を真っ二つに切り裂いたとされます。この行動はアジアの人々に衝撃を与え、アレクサンドロスの神話に新たな一ページを書き加えることになったのでした。


ゴルディオンを拠点に兵を再結集させていたアレクサンドロスの元に、一つの朗報が届きます。紀元前333年7月。メムノンが急死したのです。この直後、メムノンはペルシアの海軍を結集し、直接ギリシアとマケドニア本国に圧力をかけようと画策します。このことで、ギリシアの諸ポリスの反マケドニア勢力に勢いを与え、アレクサンドロスも戦略的後方を封じられることになります。その準備を行っている最中のメムノンの死亡でした。その後任に選ばれた人物はメムノンほどの才覚も戦略も持ち合わせていませんでした。海上での決戦を望んでいたメムノンが消えたことでペルシア海軍の動きに一定の歯止めがかけられた事になりました。


そうなると、いよいよ勢いづくマケドニア軍に、ついにペルシアの王・ダレイオス3世が立ち上がります。帝国全土に動員令を出し、軍の編成を始めます。その数は一部においては60万とさえ言われますが、この時代の兵の運用能力を考えれば非現実的な数で、せいぜい10万くらいであっただろうとされます。そのうち1万から2万はギリシアの傭兵でした。仮に60万が事実だったとしても、貴族や騎兵は従者をつけるのが普通でしたのでそれらを含めた数だったのでしょう。


しかし、せっかく幕営して待ち構えたダレイオス3世は肩透かしを食らうことになります。タルソスを占領したマケドニア軍が動きを止めてしまったからです。何があったのか……アレクサンドロスがマラリアに感染し、数週間に渡り身動きの取れない状態になってしまったからでした。





【参考書籍】