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歴史小話


イッソスの会戦〜紀元前333年 戦闘の経過〜



イッソスの会戦は、古代ギリシアの密集陣形(ファランクス)に騎兵・散兵・軽歩兵を統合した新たな戦術を生み出したマケドニア軍と、軽歩兵・騎兵・弓兵を主力とし機動力に優れ、広大な領土を治めるための大兵力を運用する術に長けていながら、衝突力に勝る重装歩兵部隊を保有していないという欠点を持っていたペルシア軍の、古代ギリシア式の重装歩兵の密集陣形を取り入れようという試み。全く正反対の出発点を持ちながら同じ帰結点を目指した二つの軍隊の戦いでもありました。勝敗を分けたのは兵の質の差でした。


戦闘の経過


対峙

ダレイオス3世率いるペルシア軍が幕営していたのは開けた平野で、ペルシア軍の騎兵と戦車を有効に活用できる土地でした。しかし、タルソスから動かないマケドニア軍に業を煮やしたダレイオス3世は、マケドニア軍を探して西へと移動します。


アレクサンドロスの容体も開放に向かいマケドニア軍の将軍たちは、ペルシア軍との決戦の場所を模索し作戦を練り始めます。兵の数はペルシア軍の方が優位ですが、マケドニア軍の戦闘能力をしっかりと活かせる場に決戦の舞台を移すべく、彼らが選んだ決戦の地はイッソスの町に近いピナロス河の流域の平野でした。そこは三方を山に囲まれた狭い岸辺て、敵味方双方にとって本格的な側面攻撃をするにも、騎兵の突撃戦をするにも、敵味方の双方にとって難しかったからでした。しかも、ダレイオス3世がここにいたるまでに岩だらけの細い山道を通ってこなければならず、十分な時間稼ぎが出来ると考えました。 


アレクサンドロスは充分な準備を整えながら、それでもなお、この平野にダレイオス3世を引き込めるのか確信がもてませんでした。そこで、健康も回復した11月初旬、傷病兵を残してトルコ・シリアの平原にダレイオス3世を探しに出発しました。ペルシア軍を発見したらすぐさま引き返し,ピナロス河流域の決戦の地へ引き込む手はずでした。


マケドニア軍の情報収集・偵察能力は極めて高いレベルで訓練されておりましたが、地の利のあるペルシア軍の方が一枚上手でした。その行動は完全に秘匿にされ、イッソスの町の南へダレイオス3世を探しに出かけたアレクサンドロスと入れ違いに北のアマノス門と呼ばれる峡谷を抜け、アマノス山脈を超えてイッソスの町を北東から強襲しました。完全に意表をつかれたアレクサンドロスは後方連絡網が断たれたことを知りました。マケドニアへの退路は完全に断たれました。しかも、ペルシア軍はアレクサンドロスが残してきた傷病兵を虐殺したのです。アレクサンドロスは自分の判断ミスを後悔し、自責の念に苛まれます。その姿を見たマケドニア軍の将兵はアレクサンドロスへの信頼の念を新たにし、ペルシア軍への怒りを掻き立てたのでした。


退路を失った今、マケドニア軍に残されたのは決戦のみでした。ピナロス河の北岸にペルシア軍は布陣します。そのあたりが最も幅が広い平野だったからですが、予定とはかなり違った形とはいえ狭い地域に敵の大軍団を押し込むことになりました。


アレクサンドロスは自らが司令官たちを軍議を重ねている間、暖かい食事をしっかりととらせ、一晩ゆっくりと休ませ、戦いに備えさせました。朝になると、神々に敬意を表し、戦勝を祈願します。そして、いよいよ全軍を終結させ、兵を鼓舞します。気が付くと辺りには、兵士の輪郭も見えないほどの程の霧が立ち込めていました。その中を、第一陣が出発します。


ダレイオス3世はごく一般的で伝統的な防御体制を敷いていました。ダレイオス自身がその治世の間、戦場で兵を率いて戦ったことは幾度となくありました。彼は決して凡庸な人物ではありませんでしたが、経験した戦闘のほとんどは将によって決する戦いではなく、兵の数によって決まる戦いでした。また、指揮を取るペルシア貴族たちも、国家の危機が迫り招集された指揮官だったので、アレクサンドロスとパルメニオン。その指揮下の将兵たちのような、共に訓練し、共に遠征し、共に戦ってきた仲間同士の信頼関係のようなものはありませんでした。ダレイオス3世も大きな戦車の上に威張って腰掛け、総指揮官というよりも、凱旋将軍のような雰囲気でした。後方にはペルシアの慣習に倣い、ダレイオスの家族が控えていました。


日が昇り、気温も上がり、霧が晴れてきました。ダレイオス3世率いるペルシア軍の正面でアレクサンドロスは布陣します。縦列に戦場へ到達したマケドニア軍は横列に展開し、戦闘隊形を整えます。ペルシア軍の正面で全く手出しさせない、見事な機動でした。マケドニア軍の兵力は歩兵3万5千程度。騎兵6千程度でした。グラニコス河のとき同様、右翼にアレクサンドロス。左翼にパルメニオンが指揮を執っていました。


ダレイオス3世はこの戦いを騎兵の戦いにするつもりでした。サリッサを構えたマケドニア軍の歩兵にはペルシア軍の歩兵は太刀打ちできないだろうと考えていました。アレクサンドロスも同様に考えていました。マケドニアは山が多く、狭い場所での機動に慣れていたからです。


おそらく紀元前333年11月12日。古代戦史上最大規模の軍勢同士が対峙したのでした。


戦闘開始

マケドニア軍はじりじりとピナロス河へ近づいていました。ペルシア軍に悟られないようにゆっくりと。ダレイオス3世はなかなか動きません。圧倒的な数的優性を頼りに守りを固めたダレイオス3世に対し、アレクサンドロスは遥かに攻撃に優れた武将でした。大きく日が西に傾いたころ、戦闘の幕が切って起こされます。


アレクサンドロス自ら剣を取り、右翼の騎兵を率いて、ペルシア軍に突入します。弓兵が矢を射掛けますが、マケドニア騎兵は全く怯まずに突っ込んできます。軽装の兵士たちにはなすすべもありません。騎兵たちは、弓兵を蹴散らすと旋回し、ペルシア軍左翼のペルシアの重装歩兵(カルダケス)に攻撃を仕掛けます。ペルシアの重装歩兵は、ギリシアの重装歩兵よりも軽装であり、槍も短かったので、古代ギリシア世界を制したマケドニア騎兵を支えることはできませんでした。アレクサンドロスが騎兵を率いてペルシア軍の左翼側面から内側のギリシア傭兵とダレイオスの親衛隊の後方に向けて突き崩していく間、中央とパルメニオン率いる左翼は押されていました。ギリシア傭兵は、マケドニア軍中央の重装歩兵と激戦を繰り広げます。その戦いぶりは凄まじく、マケドニア軍は上級指揮官を含め多くの犠牲者を出しました。左翼の騎兵部隊は優秀なペルシア騎兵の突撃をまともに受け、ピナロス河から後退を余儀なくされます。


しかし、中央も左翼もよく耐え抜きました。いつ均衡が崩れて、総崩れになってもおかしくない危険な時間が過ぎていきました。


騎兵を率いて敵兵を突き倒しながら、ダレイオスの戦車を目指すアレクサンドロスはついに、その姿を捉えました。戦車を牽引していた馬は乱闘の中で暴れだします。ダレイオス3世は恐怖のあまり、戦車から飛び降り、用意してあった軽量戦車で一目散に逃げ出しました。盾も、マントも、弓も、その場に残して、命からがらその場を逃れたのでした。


さらに追撃をかけようとしたアレクサンドロスでしたが、ギリシア傭兵と白兵戦を繰り広げる歩兵部隊から救援を求められ、そちらへと馬を走らせ、ギリシア傭兵を背後から攻めます。


総指揮官でペルシア一の権力者の逃走で、一気に形勢は逆転しました。ペルシア軍の士気は衰え、攻勢だったペルシア騎兵も戦意を失うとあっけないものでした。


太陽が沈みきる頃には戦闘は終結していました。ペルシア軍の死者は膨大で10万の戦死者を出し、内1万は騎兵の死者だったとされます。その多くが逃走中に殺害されたとされます。反対にマケドニア軍の戦死者は千数百名。グラニコス河の会戦に続く大勝利でしたが、今回はペルシア王自らが出陣した上での敗戦。さらに武器やマントだけではなく、家族や戦地で命をかけて戦っている10万の兵を見捨てて逃げるという大醜態は、ペルシア王の威信を回復不可能なところまで傷つけたのでした。


戦闘後の処理

アレクサンドロスは、マケドニア軍・ペルシア軍双方の死者を丁重に葬るように命じ、ペルシア軍が戦場に持ち込んだ財宝は、武将と兵たちによって分けられました。


捕虜とした者の中には、ダレイオス3世の母シシュガンピス、妻のスタテイラ、十代の娘たちと幼い息子などもおりました。アレクサンドロスはダレイオスの母にこれまでどおりの地位や生活を保障し、それ以上の配慮も行いました。シシュカンピスにアレクサンドロスは敬意を持って接し、親しい間柄になったとされます。後年、ダレイオスの娘の一人と結婚し、ギリシアとペルシアという長年争ってきた二つの世界の融合という象徴となったのでした。


戦闘の後、シリアのダマスクスにパルメニオンを派遣し占拠させます。ここには、ペルシア軍の兵站が置かれ、莫大な財宝もおいてありました。無尽蔵とも思える富の前に、さすがのアレクサンドロスも素直に感嘆したとされます。ダマスクスに入城した祭、かつての宿敵であったメムノンの妻、パルシネを捕虜にします。美しく聡明で高貴な出自であった彼女をアレクサンドロスは側室としてそばに置き、ヘラクレスという息子を授かります。後に、ロクサネというアジアの部族の姫を正妻として迎えるまで、側においたのはパルシネ一人だったとされます。


そして、ガウガメラヘ

ダレイオス3世はもちろん、捲土重来を期して決戦の準備を始めました。その間に、アレクサンドロスに使いを送り、ペルシア西部の土地を割譲し、娘のスタテイラ(妻の、ではなく)を嫁がせようと申し出ます。アレクサンドロスにとっては割譲しようと言う土地は、既に自分が支配下にある土地であり、嫁がせようという娘も捕虜として自分の手元にある人間でした。


「イッソスの会戦の勝者と敗者が誰であったか履き違えてはいまいか? 勘違いしているのなら、喜んでいつでも一戦交えよう。今後、使いを送るときはアジアの王たる私に使者を送り、対等な立場で希望を述べてはならない。もしも、必要な物があったらペルシアの支配者たる私に申し出るように」


アレクサンドロスはそう威嚇します。アレクサンドロスはさらに戦線を拡大し、ペルシアの領土に次々と侵攻していきます。


両者の最終決戦は紀元前331年9月。戦史の研究家によっては古代史上最大とも言われるガウガメラの戦いが起こります。そこでダレイオス3世は再び敗走し、アレクサンドロスはペルシアの支配を確立します。ダレイオス3世は、敗走の途中、味方の将軍サトラップに暗殺されます。


それから

イッソスの会戦から8年。戦いを重ね東方への大遠征を行いインダス川に迫り、空前の大帝国を築いたアレクサンドロスも、紀元前323年バビロンで急死します。32歳の若さでした。その死後、帝国は分割されましたが、この遠征の結果オリエント世界の隅々にギリシア風の文化が行き渡りました。アレクサンドロスの死から3世紀程度をギリシア人(ヘレネス)による世界征服という意味で、ヘレニズム時代と呼ばれます。やがて、ローマ帝国により再統一が成され、さらにその後の文明にも大きな影響を与えます。西欧もピザンツ帝国も、西アジアのイスラム世界も、ギリシアとオリエントを結びつけたヘレニズムの文化を受け継ぎ、その土台となったのでした。


アレクサンドロスの軍事功績

アレクサンドロスの死から2100年が経ち、一人の軍事の天才がフランスに出現します。ナポレオン・ボナパルト……フランス帝国の皇帝にまで上りつめ、ヨーロッパ全土を制圧した名将はアレクサンドロスを徹底的に研究し、独自の戦法を創り上げました。その戦法は散兵によるかく乱と足止め、横陣により全軍圧迫、縦陣による精鋭部隊の突入。アレクサンドロスの戦闘教義と酷似していました。しかし、アレクサンドロスの時代と違い、ナポレオンの時代にはジェミニ、クラウゼヴィッツといった優れた戦術家の手によってナポレオンの戦術は徹底的に研究され、敵軍もそれを模倣し自分たちのものにしていきます。現代においても、近代兵器の発展による若干の変更はあるものの、その基礎はナポレオン、ひいてはアレクサンドロスの陣形と大して変わりません。アレクサンドロスのマケドニア軍の完成によって現代戦術は完成したといえるのです。




【参考書籍】