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歴史人名紹介:アレクサンドロス大王(前356〜前323)



古代マケドニアの王、アレクサンドロス大王は日本では「アレキサンダー大王」の呼称で知られます。ポリスと呼ばれる諸都市国家が乱立する古代ギリシアの世界を統一し、ペルシアを滅ぼし、ギリシア・エジプト・オリエント世界にまたがる大帝国を築きました。ペルシアを滅ぼした後にインドへと至る東方遠征を行い、10年にわたる制服を終えスラに帰還したのち、アラビアへの遠征の準備をしている途中で病死しました。

アレクサンドロス大王がペルシアのダレイオス3世を打ち破った戦いは、『歴史の転換点・イッソスの会戦』で紹介していますので、そちらも併せて読んでいただければ幸いです。

今のところ、アレクサンドロス大王に関する作品では『アレキサンダー(2004年)』を紹介しています。コリン・ファレルがアレクサンドロス大王を演じていました。母親のオリュンピアスをアンジェリーナ・ジョリーが演じていました。最後にはオリュンピアスのほうがアレクサンドロスより若くなってしまっていてちょっと苦笑でしたが。

紀元前356年にアレクサンドロスは生まれました。歴史家のプルタコスはアレクサンドロスが生まれたその日、エフィソスのアルテミス神殿が焼失したのは女神が王子の分娩を助けるのに忙しく自分の神殿にかまっていられなかったからだと記しています。

父のフィリッポス2世は、古代ギリシアの辺境の地であり、長らく有力貴族により権力闘争が続いてきたマケドニアの王でした。国を統一し、さらに古代ギリシアを統一し、ペルシアへの侵攻を企んでいたフィリッポス2世は、しかし、古代ギリシャのポリスとの摩擦を警戒し、常にあくまでも同等の立場にあり、ギリシアの軍を統べる総司令官であるという姿勢に終始しました。フィリッポス2世の狡猾で本心を見せない、悪く言えば姑息にも思える人物像と、アレクサンドロスのどこか夢想的で傲慢な姿は、父子でもずいぶん違うという印象は受けます。どちらかと言えば、母のオリュンピアスの性質を受け継いだものだったのでしょう。エペイロスの王女だったオリュンピアスは激情的な性格で、アレクサンドロスの生まれたのちはフィリッポス2世に疎まれたとされます。アレクサンドロスはこの母に非常な愛情を持って接していたと言われます。

居並ぶ勇者が誰一人乗りこなせなかった暴れ馬をアレクサンドロス1人が乗りこなしたとか、父王の外国での戦果を聞くにつれ、「私が征服する土地がなくなってしまう」と嘆いたとか、さまざまな逸話が残る少年時代を過ごしたアレクサンドロスは、体力も学力もずば抜けていました。フィリッポス2世はアレクサンドロスに最高の環境で学習させるためにギリシア最高の教師を用意しました。その中にはかのアリストテレスもいました。アレクサンドロスは彼らから王者としての重要な学問や思想を学びました。そして、16歳でマケドニアの摂政となり17歳でカイロネイアの戦いでは左翼で騎兵を率い勝利に貢献しました。紀元前336年に20歳の時にフィリッポス2世が配下の貴族の凶刃に倒れると素早く葬儀を執り行い王の正統な後継者であることを証明すると、暗殺にかかわった貴族を処刑し、反乱の姿勢を見せた諸ポリスをたたきのめしギリシアの統一を果たしました。

いよいよ、フィリッポス2世が果たせなかったペルシア侵攻の時が訪れました。この時代のペルシアの王朝はオリエント文化の集大成ともいうべきアケメネス朝ペルシア帝国でした。広大な領土といくつもの民族を束ねる「王の王」はダレイオス3世でした。無尽蔵な富と戦力を持つダレイオス3世に向かっていくのは、自殺行為だ。ペルシア側はそう思っていました。

しかし、そんなペルシア帝国がなぜあっけなく瓦解してしまったのか? 理由は多々ありましたが、個人的には、アレクサンドロスに匹敵する戦略眼と実戦経験を持った将軍に全権を与えなかったこと、に尽きる気がします。少なくともマケドニアの軍が財政的に火の車にある上、ペルシア領内では充分な補給もできないことに気づいている将軍はいましたが、ペルシア貴族が実権を握る中、発言力は小さく、野戦の天才であるアレクサンドロス相手に正面決戦を挑むよりなくなってしまいました。

グラにコス河の会戦(前334年)でペルシア軍を打ち破ったアレクサンドロスの軍は次々にマケドニアの都市を陥落させていきます。状況がひっ迫していることを思い知ったダレイオス3世は大軍を率いて―― 一説では60万という説もあります――アレクサンドロスと戦います(イッソスの会戦 前333年)が、マケドニア軍の攻勢の前に、ついに戦場で戦っている兵士も、戦場に連れてきていた家族も置き去りに逃亡しました。アレクサンドロスは、家族を丁重に扱うことで王者の寛容さを示しました。ダレイオスの財宝の一部を手に入れたアレクサンドロスも自身が用意した軍資金など比べ物にならないほどの財宝を目の当たりにし、素直に驚嘆したと伝えられます。

その後、ガウガメラの会戦(前331年)で再びダレイオス3世を敗走させ、ダレイオス3世は配下の者に殺害され、ペルシア帝国はその歴史に幕を下ろしました。

ペルシアを滅ぼし、ギリシアをペルシアの楔から解き放つ……という目的は達されました。それ以降インドを目指して、侵略のための侵略、征服のための征服を繰り返します。その過程でアジアのソグドの姫のロクサネとの結婚がありました。

アレクサンドロスは、東方遠征の中で父王のころからの忠臣だったパルメニオンとその息子を殺害します。自らをゼウスの息子と称するようになり、周辺にはイエスマンばかりが配置されました。御用史家だったカリステネスも、アレクサンドロスの決定を批判し処刑された一人でした。カリステネスはアリストテレスの甥で、カリステネスの思い上がりはアリストテレスの責任だと考え、アリストテレスに復讐まで考えたと伝えられます。アリストテレスは、そのことに非常に落胆し、「アレクサンドロスの創りだした世界に甘んじようというものはいないだろう」と言ったと伝えられます。アレクサンドロスは大変なカリスマ性を持った人物であり、そのカリスマ性によって兵を率いてきました。しかし、自分と信念を共有できない人間のことは考えに入れていませんでした。

紀元前324年に東方遠征を終え帰国したアレクサンドロス大王は、さらにアラビアへの遠征の準備を始めました。しかし、その翌年、病気で死亡します。33年の短い生涯でした。

アレクサンドロス大王が築いた大帝国は、しかし後継者争いによって4つに分断されます。アレクサンドロスの業績は古代ギリシアとオリエント文明を繋ぐものとされ、両者が融合した文化はヘレニズムと呼ばれ、新たな歴史が刻まれました。


















世界の古代遺跡#03 アレクサンドロス大王の道 ギリシャ・イラン・パキスタン(デジタルコンテンツ)