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歴史人名紹介:クレオパトラ(紀元前69〜紀元前30)



古代エジプトの歴史は、さかのぼれば紀元前3000年にも達します。その間に、実に32もの王朝が登場しました。紀元前304年に、プトレマイオス1世によって開かれたプトレマイオス王朝は、ローマに征服された古代エジプトの時代の王朝です。そして、その最後を飾ることになったのがクレオパトラ7世でした。

クレオパトラに関する作品は今のところ次の作品紹介しています。『クレオパトラ(1963年)』ではエリザベス・テイラーが演じています。『レジェンド・オブ・エジプト(1999年)』では当時まだ新人だったレオノール・ヴァレラが演じています。『ミッション・クレオパトラ(2002年)』ではイタリアの至宝、モニカ・ベルッチが演じていました。エリザベス・テイラーのクレオパトラは最も有名なものだと思いますが、個人的にはレオノール・ヴァレラが演じていたクレオパトラのほうが好きでした。もちろん、他にもたくさんの女優さんがクレオパトラを演じています。『ROMA(2007年)』でも、カエサル―オクタヴィアヌスの時代が舞台なのでクレオパトラも登場します。実は○○○○○○が△△△の息子だったというとんでもないストーリーになっているのですがそれは実際見てから確かめてください。

クレオパトラは絶世の美女として知られます。その美貌でカエサルやアントニウスといったローマの中枢をになった人物を骨抜きにしてローマを飲み込もうとした毒婦として後のローマで嫌われたため、そのイメージが一人歩きして現代まで伝わってしまいました。

クレオパトラを評した言葉で最も有名なものに、「もしもクレオパトラの鼻がもう少し低かったなら、世界の顔は変ったであろう」――ブレーズ・パスカル(1623〜1662)の『冥想集』より――があります。恋愛というものの持つエネルギーのことや、世界は些細なことで変化するという意味合いで使われた言葉だと思いますが、残念ながらクレオパトラでは、この例にはならないでしょう。彼女はエジプトの女王であり、それほどの地位の人間には自然と人は集まり好意を手に入れたいと考えるものだからです。彼女の鼻が少々低かろうと歴史は変わらなかっただろうと思います。

クレオパトラの容貌について1世紀の歴史家プルタニコスは「彼女の美しさはそれ自体ではまったく比類ないというものではなかった」としています。さらに、「女王の魅力はある程度華奢な点にあった」と述べています。絨毯にくるまってカエサルの前に現れたという場面はそのことを証明していますが、そういうことをやってのける頭のよさや大胆さが彼女の魅力だったのでしょう。

カエサルと初めて出会ったときのクレオパトラは窮地に陥っていました。紀元前51年に父のプトレマイオス13世が崩御すると、遺言に従い長女のクレオパトラと10歳ほどの息子のプトレマイオスに共同統治が始まりました。それは、2人の結婚を意味していました。この後、プトレマイオス13世を操り政を意のままに操ろうとする3人の後見人によってクレオパトラは追放されていました。紀元前48年にローマでの権力闘争に敗れたポンペイウスがエジプトに助けを求めてやってきます。しかし、プトレマイオス13世と3人の後見人は日の出の勢いのカエサルに睨まれるのを恐れてポンペイウスを謀殺します。ところがカエサルはポンペイウスの首を見て涙したといいます。エジプトの現体制は危険だと感じたカエサルは姉と弟の仲裁すると理由をつけてエジプトに居座ることに決めました。そして、公平を期すためにプトレマイオス13世とクレオパトラに出頭を求めます。

クレオパトラは何が何でもカエサルに会わなければなりませんでした。カエサルが駐留するアレクサンドロスの宮殿はローマ兵が警備に当たっていますが、弟の後見人でポンペイウスを殺した男もそこにはいました。もし彼に見つかれば命はありません。そこで一計を案じ、絨毯に潜り込み忠実な部下に運ばせるという手段をとりました。この頃、貢物を絨毯に巻いて運ぶのは珍しくなかったからです。そんな貢物の一つだと思ったカエサルも、絨毯の中からクレオパトラが転がりだした時には相当に驚いたことでしょう。そしてクレオパトラに興味を持ちました。クレオパトラは、幼い頃からギリシア式の教育を受け、語学に優れ、知的能力の高い、才気あふれる女性でした。カエサルは彼女を気に入り、クレオパトラを即位し王である弟を退かせようと考えるようになりました。

カエサルに呼び出されたプトレマイオス13世はカエサルの傍らにクレオパトラがいるのを見てすべてを悟りました。そして、王冠を投げつけ、クレオパトラを罵りその場を後にしたといいます。両者の間で形式的な和解がなされました。しかし、プトレマイオス13世を支持する一派とカエサルの間で戦端が開かれ、アレクサンドリア戦争が勃発します。戦いは4ヶ月に渡り続きます。しかし、その間にプトレマイオス13世の味方は次々と殺され、プトレマイオス13世自身も宮殿を追われます。エジプト軍と合流したプトレマイオス13世は、勇敢に指揮を取りますが、ローマ兵を退けるために乗り込んだ小船が沈み、そのまま川底から姿を見せることはありませんでした。着込んだ金の鎧のあまりの重さに、浮かび上がることもできなかったのです。紀元前47年3月。カエサルは後始末に取り掛かります。

その後、数ヶ月に渡ってエジプトを楽しんだカエサルは、王権に大変興味を示し自らローマの王になりたいと思うようになりました。そして、2人の間にはカエサリオンという息子が生まれました。クレオパトラは、カエサリオンをローマ・エジプト連合の君主としたいと思っていました。そのためにはローマへ向かい、ローマの民衆に自身がカエサルの妻であり、カエサリオンがローマの正当な後継者であることを認めさせなければなりません。さて、カエサルがエジプトに滞在している間にローマでは状況は緊迫し始めていました。急ぎローマに戻らなければならなくなったカエサルはいずれ時を見てクレオパトラとカエサリオンをローマに迎えることを約束して、同年7月にアレクサンドリアを発ちました。

ローマに戻ったカエサルは、疲れを癒すまもなくポンペイウス派の一掃のために北アフリカに向かい、ポンペイウス派を壊滅させました。紀元前46年7月にローマに戻ったカエサルは凱旋式の準備を始めます。カエサルはクレオパトラもローマに呼び寄せようと考えていました。ポンペイウス派との勝利の祝いだけではなくアレクサンドリア戦争の勝利の祝いも兼ねることにしたのはそのためでした。

カエサルには正妻がいましたので表立って妻として振る舞いローマ市民の怒りを買うことを嫌ったクレオパトラはカエサルの別荘に滞在していました。カエサルは更なる野望のためにパルディアを通りインドへ向かう大遠征の計画を立てます。しかし、カエサルの自らを神格化しようとする尊大な態度は反感を買い、紀元前44年3月に共和制支持者に暗殺されます。東方遠征出立の直前でした。

カエサルの遺言状には、クレオパトラの名前もカエサリオンの名前もありませんでした。カエサルの跡を継いだのは、甥の若干18歳のオクタヴィアヌスでした。クレオパトラはカエサルの腹心でローマ一の実力者となったアントニウスに協力を求めようと近づきますが、紀元前43年にオクタヴィアヌスとアントニウスは和解してしまい、クレオパトラは大いに落胆します。紀元前42年までにカエサルの暗殺にかかわった中心人物を一掃したオクタヴィウスとアントニウスは、もう1人ローマの実力者を加えて三頭政治を始めます。この時期は、まだオクタヴィアヌスよりもアントニウスの勢力のほうが上回っていました。

アントニウスが再びクレオパトラと会ったのは紀元前41年になってからでした。アレキサンドリアを訪れたアントニウスを、クレオパトラは豪華な宴席でもてなします。アントニウスにエジプトの持つ富を見せ付けるためでした。その計略は成功し、アントニウスはクレオパトラとエジプトの富にすっかり魅了されてしまいました。両者は結婚し、2人の子供を設けます。それから一冬は平穏な時間がすぎました。しかし、オクタヴィアヌスとアントニウスの妻とその兄弟が争いを始め、アントニウスはアレキサンドリアを離れます。その後、クレオパトラの下にオクタヴィアヌスとアントニウスの和解と、アントニウスの妻が死に、後妻としてオクタヴィアヌスの姉のオクタヴィアとが結婚したという知らせが届きます。

紀元前37年、3年ぶりに両者は再会します。クレオパトラは、もうアントニウスを信頼していませんでしたが、カエサリオンのためにはアントニウスの協力は不可欠でした。アントニウスも、パルディアへの遠征のためにはエジプトの力は不可欠でした。両者は改めて正式な結婚をし、盟約を完全なものにします。しかし、パルディア遠征は失敗に終わりました。そうこうしている間に、三頭政治の一角が引退し、ローマの最高権力者はオクタヴィアヌスとアントニウスのみになっていました。いつ戦争になってもおかしくない中、アントニウスの評判は見る見る悪くなっていきます。ローマを離れ、クレオパトラに取り込まれたと思われたからです。さらに、クレオパトラをよく思わないローマの元老院議員たちとクレオパトラの板ばさみになったアントニウスは大きく揺れ動きます。しかし、最後はクレオパトラにたきつけられ紀元前32年の6月に、アントニウスはオクタヴィアと正式に離婚します。それは、オクタヴィアヌスとの完全な決裂を意味していました。

紀元前32年の冬から両軍は向かい合います。アントニウスの軍は湾内に封鎖されていました。オクタヴィアヌスはクレオパトラこそローマの敵と位置づけていました。アントニウスのローマ側の協力者は陸戦を主張します。しかしアントニウスは海戦を選びます。紀元前31年8月。アクティウムの海戦です。この海戦でアントニウスは敗れ、クレオパトラも進退窮まります。

紀元前31年5月。クレオパトラは密かにカエサリオンをインド向けて旅立たせます。オクタヴィアヌスからは「アントニウスの首を差し出せば女王の身の安全は保障しよう」という密約がもたらされましたがクレオパトラはきっぱりと拒否しました。アントニウスはそのことで勇敢さを思い出し、兵を率いてオクタヴィアヌスとの最終決戦に挑む覚悟を決めます。ところが、最終決戦の直前エジプトの艦隊がオクタヴィアヌスに寝返りました。クレオパトラが裏切ったと思い込んだアントニウスは宮殿へ飛び込みますが、そこで女王が自殺したと聞かされ、後を追い剣で自らの腹を刺します。ところがそれは誤りで、クレオパトラはまだそのとき生きていました。まだ息のあったアントニウスは、クレオパトラの元に運ばれ、見守られてその一生を終えました。

クレオパトラはオクタヴィアヌスの兵士に捕らえられます。八月の終わり、クレオパトラはアントニウスの葬儀を粛々と済ませ、その夜、エジプトコブラにその胸を咬ませて自害しました。その後、カエサリオンとアントニウスとの間に生まれた子の中で長男は殺されましたが、その他の子はローマでオクタヴィアヌスの監視下で育てられました。




Cleopatra Testing Poisons on Condemned Prisoners 「有罪の囚人で毒を試すクレオパトラ 」


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