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歴史小話


歴史人名紹介:ハンニバル・バルカ(前246〜前183)



第二次ポエニ戦役(前218〜前202)でローマと戦ったカルタゴの名将です。戦象と傭兵たちを率いて15年にわたりイタリアに居座り、ローマを悩ませ続けました。古代史上最も偉大な戦術家の一人であるともされます。

ハンニバルを紹介した作品では、『ガーディアン〜ハンニバル戦記〜(2006年)』を紹介しています。

ハンニバルの父ハミルカルは第一次ポエニ戦役でシチリアの総督としてローマと戦いました。第一次ポエニ戦役当時、新興国だったローマと比べ、カルタゴは地中海世界の覇者ともいうべき存在で戦力は上回っていましたが、カルタゴ本国の政治の混乱もあってカルタゴは敗北し、ローマに領土と多額の賠償金を渡さなければならなければなりませんでした。さらに、戦後、戦費や賠償金によってカルタゴの政府が戦役に従事した傭兵たちに充分な給与を渡せなくなったことで傭兵たちが反乱を起こしカルタゴは内乱となります。ハミルカルはかつての部下たちに剣を向けることを余儀なくされ、内乱が終わったときにはカルタゴは一介の弱小国となっていました。そうしたいきさつもあって、ハミルカルはローマへの憎悪を募らせ、ハンニバルもその父の憎悪を叩き込まれて育ちました。

前221年に父の後をついでいた義兄のハスドルバルが暗殺され、ハンニバルがスペインで軍司令官となります。前218年にサグントゥムの帰属問題をきっかけにカルタゴとローマの間に第二次ポエニ戦役が起こります。ハンニバルは37頭の戦象と5万から6万の兵を引き連れてピレネー山脈を越えて、現在のフランス地中海岸をとおり、アルプス越えを断行(前218)しました。その間には、カルタゴにもローマにも非友好的な部族と、地図も道案内も無いヨーロッパ最大の山脈が、ハンニバルの軍を阻みます。北イタリアへと抜けたとき、戦象と兵士の3分の1以上を失っていました。しかし、カルタゴは地中海から攻めてくると判断していたローマの防衛システムの裏をかくことに成功しました。

アルプスを軍団で越えるというハンニバルの当時例を見ない進撃は、ハンニバルの部下たちに恐怖を沸き起こさせ、兵士たちはハンニバルの前進を阻止しようとします。ハンニバルは彼らの先頭に立って叱咤激励し、彼らの恐怖心を取り除き、勇気を奮い起こさせます。さらに、ハンニバルの軍は、さまざまな異民族からなる混成部隊でした。それをまとめあげ、次々と勝利を収めたことに、ハンニバルのリーダーシップの強さが見てとれます。

トレビアの会戦、トラジメーノ湖の会戦で、ローマ軍を完膚なきまでに叩き潰したハンニバルに対して、ローマ執政官のファビウスは、ハンニバル軍との直接対決を避けて消耗させる作戦に出ます。しかし、イタリア中を荒らしまわるハンニバルにローマの方が先に根を上げて、ファビウスの任期が切れて新たな執政官が選出されると、8万もの大兵力を用意して、ハンニバルに決戦を挑みます。有名なカンナエの会戦(前216)です。この戦いで、ハンニバルはローマ軍を包囲し、大虐殺を繰り広げます。ローマはかき集めた大軍の7割を失いました。

しかし、この後、ハンニバルはローマに迫ることをしませんでした。ハンニバルの最終目標はローマの征服意欲を失わせるためで、ローマ軍を野戦で完膚なきまでに打ち破りローマの同盟都市を離反させることを第一と考えていました。さらに、アルプス越えは投石器などの大規模な功城戦兵器の運搬を不可能にし、堅固なローマの町を攻め落とすのは数ヶ月がかりになることも予想されました。それらが、ローマ攻撃をためらった理由でした。強硬にローマ攻撃を主張する将の一人は、「あなたは、戦いには強いが、それを活かす術を知らない」とハンニバルに言ったとも伝えられます。

カンナエの会戦の後、ローマはファビウスの考えが正しかったことを認識し、再び消耗戦に乗り出します。さらに、期待したローマの同盟都市の離反があまり無かったことや、カルタゴからの補給を受けるために南の港町のナポリを攻撃したものの陥落させられなかったこと、カルタゴ本国でも国論が二分されハンニバルが充分に支援を受けられなかったことなど、悪い要素が重なり、アルプスを越えてから15年の間、イタリア半島に居座ることになりました。その間に、戦力は低下し、最後の戦闘の頃には初期の頃の兵力は見る影も無く失われていました。

ローマは、その間に有能な士官の育成と戦力の充実に力を注ぎ、前207年にスキピオ一家が率いるローマ軍をスペインに送り込みハンニバルへの支援をできなくします。さらに、スキピオ・アフリニカス率いるローマ軍をカルタゴ本国のある北アフリカへと送り込みます。カルタゴ本国は、防衛のためハンニバルを呼び戻します。ザマの会戦(前202年)の前日、ハンニバルとスキピオが対談し、戦争の回避とローマからの離反をすすめるハンニバルに対し、スキピオは「あなたは平和の中で生きるのが何よりも不得手なようだから」と返したと伝えられます。ザマの会戦は、ハンニバルの戦略を徹底的に研究したスキピオが、カンナエの会戦の再現とも言うべき包囲殲滅戦で勝利し、カルタゴはローマに和睦を申し出ました。莫大な賠償金の支払いと、戦力を失ったことによって、北アフリカの弱小都市国家となったカルタゴでしたが、ローマの支配の下、繁栄の時を迎えます。

前196年に、ハンニバルは投票で行政長官に任ぜられましたが、ハンニバルを快く思わない政敵の密告によってローマに囚われそうになり東地中海に亡命します。ローマはハンニバルを追い続け、前183年、ハンニバルはトルコで自殺します。

晩年、ハンニバルとスキピオが会談したことがあったとされます。スキピオが、歴史上もっとと偉大な軍事指導者はとたずねると、アレクサンドロス大王、ピュロス王に続いて、自分の名前を出したとされます。「それではもしも、ザマの会戦で敗れていなかったらどうなっていましたか」とスキピオが尋ねると、「それならば私が一番だ」と答えたと伝えられます。真偽のほどはとにかく、ローマを後一歩のところまで追い詰めたハンニバルは、歴史上最も偉大な軍事指導者の1人であることは確かです。