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歴史小話


歴史人名紹介:ヘンリー8世(1491〜1547)



エリザベス1世の父親に当たるヘンリー8世は、現在のエリザベス女王や、エリザベス1世、ヴィクトリア女王といったあたりを除けば、日本でも有名な部類に入るイングランド国王でしょう。

イングランド国教会のローマ教会からの分離独立は文字通り世界の歴史を変えた出来事でしたが、その背景にあるキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚、アン・ブーリンとの結婚、さらにアン・ブーリンの処刑という悲劇のために、どちらかと言えば悪役のイメージが強い人物です。今のところ、国教会独立のごたごたを描いた『わが命つきるとも(1966年)』と、ヘンリー8世とアン・ブーリンを描いた『ブーリン家の姉妹(2008年)』を紹介しています。2つの作品のヘンリー8世は全くタイプの違うキャラクターですが、ヘンリー8世は、自分の体格がいいこととをとても自慢にしていたと言われます。

ヘンリー8世の父親であるヘンリー7世は、テューダー王朝の始祖にあたります。ヘンリー8世には兄がいましたが、16歳の若さでこの世を去ったため、次男のヘンリーに王冠が回ってきました。父親のヘンリー7世は内政の問題点を的確に把握し、しっかりとした先見の明をもって諸問題に取り組みました。寛大王と呼ばれるほど政敵や自分の地位を脅かそうという者に対し寛容な姿勢で臨み、国家財政に対し徹底的に出費を切りつめ、臣下の土地を容赦なく没収し、出納簿をつけてわずかな無駄もなくすために努力しました。

そんなヘンリー7世の厳しい管理の下で、厳しく育てられた反動からか、ヘンリー8世は成長してからは自分の望むように生きました。反逆者には厳しくあたり、衣食住への金の使い方もヘンリー7世とは全く違っていました。かといって、わがまま放題の人間だったかと言えばそうではなく、その学力には並々ならないものを持っていました。これは、祖母のマーガレット・ボウチャーの影響が強いもいのでした。彼女は文芸を奨励し、宮廷には詩人のジョン・スケルトンなどを始め、当時の優れた学者や文人がたくさん出入りしていました。

トマス・モアやエラスムスといった有名な人文学者とも親交があり、ヘンリー8世がエラスムスに送った手紙は、当時のヨーロッパ共通語のラテン語で書かれていました。ヘンリー8世は当時最高クラスのインテリでした。ヘンリー8世のことを称した有名な言葉として、マルティン・ルターの宗教改革を批判した著書を書き、ローマ教皇レオ10世が賛辞として使った『宗教の擁護者』というものがあります。ヘンリー8世が当時第一級の知識人であることの証明であるとともに、後の歴史を見れば皮肉としか言いようのない言葉です。

ヘンリー8世と最初の妻、キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚生活は、当初は良好なもので、2人は6人の子供に恵まれました。しかし、その中の5人は死産か流産、あるいは生後すぐに死亡し、順調に成長したのはメアリー王女のみでした。国に混乱を招かないためにどうしても、男子の跡継ぎを欲しました。
そこで、文字通り目を付けたのがキャサリンの侍女のアン・ブーリンでした。アンは、王妃にしてくれなければと王の求愛を拒否し、キャサリン王妃とヘンリー8世の確執も深くなっていきました。キャサリン王妃は徹底的に離婚を拒否し、ヘンリー8世はローマ教会に結婚の無効を申し出ますが、教会は拒否しました。

キャサリン王妃はスペインの王女で、元はヘンリー8世の兄、アーサーの妻でした。生来病弱だったアーサーは結婚後すぐに死亡し、夫婦関係を1度も持つことができなかった、ともいわれます。大国スペインとの関係を維持したかったヘンリー7世はキャサリンとヘンリー8世を結婚させたのですが、この当時は兄嫁と弟の結婚は近親相姦にあたると考えられていました。わざわざ当時のローマ教皇に特免状を出してもらって結婚したというのに、今度は、そのことを理由に離婚しようというのですから、教皇のクレメンス7世が渋るのも当然でした。しかも、この頃のローマ教会へ、神聖ローマ帝国皇帝のカール5世の影響力は計り知れないものがありました。カール5世はキャサリン王妃の甥にあたり、この状況では離婚が認められようはずもありませんでした。

しかも、トマス・モアを始め、イングランド国内でも離婚に反対の声が上がります。ついに進退きわまったヘンリー8世はローマ・カトリック教会との決別を決意します。それをより正当化させるために、イングランド国王はイングランドの聖俗両面の最高権力者であることを議会に認めさせました。そして、アンとヘンリー8世の結婚を認めないものや、ローマ教皇が単にローマの教会の教皇に過ぎないことを認めないものは反逆者として処刑されました。トマス・モアもこのとき処刑されました。またカトリック教会の聖職者への弾圧をおこない、教会の資産を有無を言わせず没収しました。この時に、国庫には10万ポンドの金が入ったともいわれます。

そんなごたごたの中、1533年にアンとヘンリー8世はめでたく結婚しますが、ロンドン市民はこれを冷ややかに見つめ、パレードのアンは罵声を浴びせられました。さらに、最初に生まれたのは女児で、再び身ごもったものの今度は流産します。そんなアンに、ヘンリー8世は「私はそなたを王妃にした。しかし、そなたは私の息子を殺した。」と言い放ったとも伝えられます。アンに見切りをつけたヘンリー8世はアンの侍女のジェーン・シーモアとの結婚を模索し始めます。そんな折、アンの弟のジョージ・ブーリンの妻、ジェーン・パーカーの密告により、アンとジョージを始め、アンと5人の男との間に不貞行為があったとして逮捕され、裁判の末に有罪となり、断頭台に送られました。アンは1536年に斬首されました。享年は36歳くらいだと言われます。彼女が生んだ女児が後のエリザベス1世となるのですが、それはもう少し先の話です。

1537年10月ジェーン・シーモアとの間に待望の男児が生まれました(後のエドワード6世)。しかし、ジェーン・シーモアは息子を産んだ直後にこの世を去ります。キャサリン・オブ・アラゴンから始めて6人の妃を持ちましたが、そのうちアン・ブーリンを含めた2人の王妃が処刑台に送られました。これらの事実やカトリック教会とその支持者などへの弾圧のために、ヘンリー8世は残虐な王のイメージは拭えないものがあります。しかし、ヘンリー8世は38年の長い治世を全うし1547年にこの世を去ります。イングランドの基盤となるイングランド国教会の設立は、文字通り後の歴史を変えました。