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歴史小話


歴史人名紹介:マリー・アントワネット(1755〜1793)



フランス革命時のフランス王妃で、フランス革命によって断頭台へと送られた女性です。彼女の生涯を見て悲劇のヒロインと見るか否かは、考え方の分かれるところかと思いますが、箱入り娘だった彼女の無関心が悲劇を生んだという気はします。

今のところ紹介している作品でマリー・アントワネットが主役の作品は2本。『マリー・アントワネット(2006年)』ではキルスティン・ダンストが、『王妃 マリー・アントワネット(2006年)』では、カリーヌ・ヴァナッスがそれぞれ演じています。それから、関係する作品として首飾り事件をテーマにした『マリー・アントワネットの首飾り(2001年)』とフランス革命直前の宮廷の混乱を描いた『マリー・アントワネットに別れをつげて(2012年)』を紹介しています。『マリー・アントワネットの首飾り』ではジョエリー・リチャードソンが、『マリー・アントワネットに別れを告げて』ではダイアン・クルーガーが演じています。個人的には『マリー・アントワネットの首飾り』がお薦めです。『王妃マリー・アントワネット』でも首飾り事件について触れられていましたが、マリー・アントワネットの世間への無関心ぶりがよく現れている事件です。

マリー・アントワネットは、1755年、オーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘として生まれました。鉄の女として知られるマリア・テレジアも、末娘には特に甘く、マリー・アントワネットは自由奔放に育ちました。色白の肌に可愛らしい容姿の、快活な性格で誰にでも好かれる幸福な子供時代をすごしました。

この当時、オーストリア王家のハプスブルグ家は、ヨーロッパに膨大な領地を有する、ヨーロッパ随一の名家でした。そのハプスブルグ家とフランス王家のブルボン家の間では領土をめぐる紛争が絶えませんでした。それを打開するための方策として、両家を婚姻関係で結び付けようという計画が持ち上がりました。白羽の矢が立ったのがマリー・アントワネットとフランス王太子ルイでした。

この話が持ち上がったのはマリー・アントワネットが12歳の頃でした。マリア・テレジアもそうなればと、末娘の教育に力を注ぎます。手始めにフランス語から始まり、フランスの歴史や文化の講義、ダンスにハープにピアノ、歌のレッスンや、フランスの礼儀作法。ある講師は彼女の飽きっぽさや集中力のなさを指摘しますが、それでも素晴らしい才能を見せたマリーは、それらを着々とこなしていきました。

1770年5月。マリー・アントワネットと王太子ルイはコンピエーヌ城で対面します。王太子は、容貌も決して良くなく、それ以上に気弱で内向的で、趣味は錠前作りという、話をするのも難しい人物だったとされます。彼は、輝くようなマリーの美しさに圧倒されて、目を合わせることも、話をすることもできませんでした。その二日後に、結婚式が晴れやかに行われました。誰もが、未来の王妃の美しさに魅了されていました。

元来華やかなことが好きだったマリーはパリを好みました。社交が苦手だった夫をヴェルサイユ宮殿に残して、観劇やオペラに興じていました。その中でも特に好んだのは仮面舞踏会でした。ただの17歳の娘として身分も顔を隠し自由を満喫する彼女は、オペラ座で後に愛人となるスウェーデン貴族アクセル・フォン・フェルセンと出会いました。

1774年5月にルイ15世が崩御し、王太子ルイはルイ16世に、マリーは正式に王妃となりました。しかし、結婚して4年経ったというのに世継ぎは生まれませんでした。その前に、夫は一度もマリーを抱いたことがありませんでした。実はルイは包皮で、その痛みのために妻を抱くことができなかったのです。医師たちは手術を勧めましたがルイは頑として聞き入れませんでした。マリー・アントワネットはそんな夫に愛情を持てずに、毎夜のように遊びまわります。結婚して7年が経っても子ができないことに不安を感じたマリア・テレジアは、マリーの兄で神聖ローマ帝国皇帝のヨーゼフ2世をフランスに行かせます。ヨーゼフは、ルイに世継ぎを作ることの重要性を切々と説き、ルイは信じられないほどあっさりと手術することを決めました。

1778年にマリーは母親になります。それから男女2人ずつ4人の子供を生みます。母親になったマリーは、王妃としてそれに相応しい振る舞いをしなければと考え、結果的に国庫を散財に使うようになります。王妃としていつも華やかでならなければならないときらびやかな衣装をまとい、派手な髪型には宝石がちりばめられました。社交的だった王妃は貴族の婦人を開いてお茶会をしたり、ハープの演奏会を開いたり、戯曲を演じたり、パーティをしたりということを好みました。そんな彼女は結婚記念にプティ・トリアンの館を国王から送られると特に気に入り、気に入った貴族婦人を集め、自由気ままな生活を送りました。ルソーが18世紀の半ばに提唱した文明から離れた自然への回帰に深く感銘を受けたマリーは、プティ・トリアンの広大で自然豊かな敷地の一角に農家を建て、小川や池をつけて木製の橋をかけました。菜園を作り牛を飼いました。膨大なお金をかけて作られた自然豊かな世界で、質素な衣類をまとったマリーは、今までに経験したことのない素朴な生活を送っていました。

しかし、この頃の国民の生活は大変困窮していました。マリーは名指しで「赤字王妃」と呼ばれ、民衆からの怒りの矛先になっていました。ルイ14世の頃から絶え間なく続いている戦争や、ヴェルサイユでの貴族たちの贅沢な生活。さらに、アメリカで起きた独立戦争をフランスは支持し、派兵や資金援助のため、財政は悪化していました。さらに、悪天候のため不作が続き、物価も上がり、民衆の生活はさらに苦しいものになりました。有名な、「パンが食べられないならケーキを食べればいい」という言葉はマリーが言ったことではありませんでしたが、あの王妃ならそういうことを言ってもおかしくない、と思われるほど浪費家であることは知れ渡っていたのでしょう。

1789年7月のパスティーユ牢獄襲撃をきっかけに立ち上った革命の炎はあっという間に地方に飛び火します。国王は、何とか鎮静化しようとしますが、焼け石に水でした。10月に、6000人ものパリ市民が武器を手にヴェルサイユ宮殿に押し寄せ護衛の兵を殺すと宮殿になだれ込んできたのです。この事件は国王とマリー・アントワネットがバルコニーへ進み出て民衆の前に姿をさらすことでひとまず収まります。この行動が民衆に王家への敬意を思い出させたのです。パリ市民たちはルイ16世にパリへ移ることを求め、ルイ16世もそれに応じます。そして、パリのチェイルリー宮殿での監視つきの生活を余儀なくされました。誇り高い王妃はこのような生活を受け入れることはできませんでした。フランスを逃れ、再び王妃らしい生活を取り戻したいと思っていました。頼るべきはどこか。生家であるオーストリア王家以外にはありませんでした。その逃亡に手を貸したのは、愛人のフェルセンでした。1791年6月にそれは決行されますが、さまざまな手違いが重なり、さらにすべてを捨てた逃亡にしては不似合いなあまりに巨大な馬車が用意されました。マリーはこのようなときでさえプライドを捨てられなかったのです。ヴァレンヌの村で不信に思われた国王一行はそこで捕らえられパリに戻されました。この行動が国王一家へ残った民衆の最後の信頼をすべて失わせました。

革命はさらに激しさを増し、王政廃止を訴える強硬派が実権を握りつつありました。1792年の2月に一家はタンプル塔に幽閉されました。タンプル塔での生活は単調なものでしたがそれなりに幸福な時間でした。ルイ16世は息子に勉強を教え、マリーは、娘や一緒にされたルイの妹とトランプや語らいをしたり、そういう安らかなひと時がどんなにか大切なものなのか、もしもチェルニーの宮殿を逃亡する前に気づいていたなら彼女の不幸な運命も少し変わっていたのかもしれません。しかし、議会では過激派のジャコバン派が力を持っていました。彼らは、国王の処刑なくして革命は終わらないと考えていました。1792年9月に王政は廃止され、12月に始まった裁判で一市民となったルイ16世には死刑が宣告されました。翌年1月21日。ルイ16世は処刑されます。

そして8月にコンシェルジュリーの監獄に移されたマリーは、そこで形ばかりの裁判を行われ10月に処刑されました。享年38歳。監獄に幽閉されていた間に、彼女の髪は真っ白になっていたとされます。

この後、革命は暴走へとすりかわっていきます。ジャコバン派の旗頭ロペスピエールは大勢の貴族たちを処刑場に送り、革命家たちからも批判されました。すると、自分に反対する革命家たちにもその刃を向けるようになったのです。ロペスピエールは失脚し、仲間たちとともにコンシェルジュリーに送られ、マリー・アントワネットと同じ運命をたどることになるのです。








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