TURNING☆POINT〜世界史(西洋史)を舞台にした歴史映画・DVD紹介のサイト〜


カスタム検索





歴史人名紹介:ネルソン提督(1758〜1805)



ホレイシオ・ネルソンは、ナポレオン戦争時のイギリス海軍の提督です。1798年のアブキール湾の戦い、1805年のトラファルガーの海戦でナポレオンを敗走させ、イギリス海軍の誇りともいうべき人物でしたが、自身はトラファルガーの海戦の最中に狙撃され、帰らぬ人となりました。

今のところ紹介している作品は、古典映画の名作『美女ありき(1940年)』があります。ネルソンを演じているのは名優ローレンス・オリビエ。まさに、世紀の不倫劇ともいえるネルソンとエマ・ハミルトン夫人の物語をテーマにしています。だからといって、そのことが決してネルソン提督の名誉や業績を汚すものではないと考えるのは自分が男だからでしょうか。

ネルソンは1758年9月にノーフォークの近くのバーンハム・ソープで牧師の息子として生まれました。ナポレオンより、11歳年上になります。9歳の時に母親をなくしたため、父の手で、優しく、そして厳しく育てられました。少年期のネルソンは芯の強いところや子供らしくない落ち着きは見せるものの、これといって目立つことのない少年時代だったとされます。しかし、海が好きで、よく海を見に行っては沖に浮かぶ船をマストや大きさなどからその種類を判別することも楽しみの一つでした。海軍の軍人にという思いが目覚めるのは、ごく自然な成り行きでした。

ネルソンにとって叔父に当たる人物がレゾナブル号の艦長に就任するしたことが、ネルソンを海へと乗り出す機会を与えてくれました。ネルソンは父親を通して叔父に頼み船に乗ることを承諾されました。地味ながら海軍生活が始まったネルソンの海の人生は、一時期商船に乗って大西洋を渡ったり、また海軍に戻って、着々とその経験を積み重ねていきました。本来、20歳になるまで許されなかった大尉への昇進も、わずか18歳で着任し、それから数年で、フリゲート艦の艦長を務めるまでに昇進していました。

ところが、彼には戦場と巡り合うことができませんでした。船団の護送任務に回されることが多かったのです。やがて、陸に上がるはめになったネルソンでしたが、ささやかな幸せを手にいれることは出来ました。フランシス・ニズベット――ファニーと呼ばれていました――という未亡人に求婚し、承諾されたのです。1787年のことでした。ネルソンは彼女や、彼女と前夫との間の子にも愛情を注いでいましたが、情熱的ではありませんでした。パーナムソープで平凡な生活を送っていたネルソンはその土地での生活に慣れようと努力しますが、ネルソンの心はいつも海にありました。そして時代は、ネルソンを海へと引き戻しました。フランスで革命が起こると、イギリスにはフランスからの貴族が逃げ込んできました。イギリスは、フランスの革命が他国にも波及することを嫌い、対決の姿勢を強めます。ネルソンもまた、戦列艦の艦長として、海に戻ってきました。

1783年の8月に、ネルソンはナポリへと訪れます。イタリアのイギリスの同盟者、ナポリ王国に支援を求めるためです。そこで、エマ・ハミルトンと運命的な出会いが待っていました。地中海で、最高指揮官のサミュエル・フッド卿に従い転戦するネルソンでしたが、戦いのさなかに右目を失います。さらに、優秀な海軍軍人だったフッド卿が本国に戻され、無能な指揮官に交代すると、やがて地中海はジブラタルの拠点を残して、イギリスの勢力はフランスによって一掃されてしまいました。もしも司令官が別の人物――フッド卿のような行動の人であったなら、ナポレオン戦争の初期はまったく様相の違ったものになったのかもしれません。司令官はその後ジャーヴィス卿に代わります。ジャーヴィスは行動の人であり、最も尊敬されていた海軍軍人でした。ネルソンを高く評価し、積極的に活用しました。サンヴィンセント岬の海戦ではスペイン艦隊を相手に大勝利を収めました。ジャーヴィスとともに勝利を喜ぶネルソンの下に、少将に任ずる辞令が届きます。辞令が遅れて届き、少将として戦っていることを知らないままに勝利していたのです。

しかし、テネリフェ島ではスペイン艦隊を甘く見たネルソンは手痛い敗北を喫し、さらに片腕を失います。ぼろぼろになって本国に帰国したネルソンを待っていたのはイギリス国民からの賞賛でした。空っぽの制服の袖は、敗北を帳消しにするだけの免罪符となっていました。そして、地中海における最高指揮官として、ネルソン提督が抜擢されたのです。アブキール湾においてナポレオンを打ち破った(1798年)ネルソンは、やがて、皇帝として全ヨーロッパの覇権を狙うナポレオン率いるフランス・スペインの連合軍をトラファルガル岬沖で破りましたが、自身はそこで狙撃され、死亡したことは前述のとおりです。

エマ・ハミルトンとの恋愛は、ネルソンにとってもっとも有名なエピソードではありますが、イギリスの上流社会では当然のことながら汚点として見られました。エマの亭主のウィリアム・ハミルトンとは36歳も年齢が離れており、いずれ、若く美しい妻が新しい恋人を作ることは覚悟していたといいます。3者は一緒に生活していたこともあり、その奇妙な生活はイギリスでも関心を呼びました。ウィリアムが1803年に、ネルソンが1805年に死ぬと、エマはウィリアムの遺産を食い潰し、ネルソンの残した館も抵当に入れられ、ネルソンがエマと娘のホレイティアの扶養を頼んでいたにもかかわらず無視され、困窮の中、1815年に、51歳でなくなります。多量の飲酒による肝機能障害であったとされます。

トラファルガーの海戦で戦死したネルソンの遺体は、腐敗防止のためにラム酒に漬けられ本国に持ち帰られましたが、航海の間に空になっていたとされます。一説では、偉大なネルソンにあやかりたいと思った水兵がラム酒を飲んだためともいわれ、ラム酒が「ネルソンの血」と呼ばれる由縁になっているとされます。イギリス本国に持ち帰られたネルソンの遺体は君主以外で初めて国葬でとり行われ、セント・ポール大聖堂に葬られました。

ネルソンは、狙撃された後も3時間ほど生き残り、勝利を確信して死亡しました。その最後の言葉は「神様のおかげで、義務を果たすことができました」だったといわれます。






HMS ビクトリー帆船模型

HMS ビクトリー帆船模型
価格:50,400円(税込、送料別)



【送料無料】ネルソン提督大事典

【送料無料】ネルソン提督大事典
価格:12,600円(税込、送料別)