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歴史人名紹介:ナポレオン=ボナパルト(1769〜1821)



フランスの初代皇帝、ナポレオン1世は歴史上最大の英雄の1人なのは間違いないでしょう。歴史上最も多くの戦争を戦ったとも言われます。フランス革命後の混乱を鎮め、フランス革命の影響が波及してくるのを恐れたオーストリア、イギリス、プロイセンなどを打ち破り、ヨーロッパの多くの地域をフランスの支配下に収めました(ナポレオン戦争)。ナポレオンは自分自身の戦略や戦術について書にして残すことはしませんでしたがナポレオンが語ったとされたとされる115の言葉は『ナポレオンの金言』として現代にも残っています。また、ナポレオンが1804年3月に制定したナポレオン法典(フランス民法典)は後に欧米諸国や日本にも大きな影響を与え、ナポレオン自身この法典を自身の実績の中で何よりも誇っていたと言われます。

ナポレオンの生涯を描いた作品としては『キング・オブ・キングス(2003年)』を紹介しています。前後篇4時間強の長大な作品ですが、ナポレオンの生涯を追うのにはいい作品ではないかと思います。ナポレオンを演じているのはクリスチャン・グラヴィエ。他の作品ではドルストイの名作を映画化した『戦争と平和(1956年)』とイタリアでヒットした小説『N』を映画化した『ナポレオンの愛人(2006年)』を関連作品として紹介しています。戦争と平和はナポレオンのモスクワ侵攻を、ナポレオンの愛人はエルバ島に流されたナポレオンを描いた作品で、ナポレオンがメインの作品ではありません。意外に紹介数が少なかったですが、このサイトで今のところあまり紹介していないだけでナポレオン戦争の時代は多くの作家や伝記課の興味を引くところであり、様々なアプローチでの作品が作られています。

実は、個人的にはナポレオンの嫌いな部分を考えると、その人間臭さ……と言うべきか、ナポレオンという人物は大変なコンプレックスを持っていたというふうに感じます。それがナポレオンが皇帝にまで上り詰めたエネルギー源になり、同時に転落していく大きな要素になったと感じています。例えば、1796年の結婚以来夫を支え続けてきた(このあたりには異論はあるかもしれませんが)妻のジョセフィーヌと1809年に離婚しています。両者の間には子供ができず、世継ぎを欲したという事情はありましたが、その後に結婚したのがヨーロッパ随一の名門ハプスブルグ家のマリー・ルイーズだったあたり、自分の血脈に高貴な血を入れたいという希望にも見えます。

ナポレオンが生まれる地中海のコルシカ島は四国の約半分近くの小さな島で、当時の人口は約13万人ほどでした。古くは古代ローマに支配され、13世紀以後は名目上はジェノバの領土とされていたものの、独立心旺盛なコルシカの人々を屈服させることができず1767年にフランスに売却されました。これまで独立国も同然の生活をしていた島民は怒り、フランスの軍隊を向こうに回して徹底抗戦しましたが、フランスの大軍の前についにフランスの領土となることを受け入れました。ナポレオンが生まれる直前の話で、ナポレオンの父親のシャルルも重要な指揮官の一人として戦いました。ボナパルト家はコルシカ島では五指に入る名家ではありましたが、フランス本国から見れば爵位も持たない最下級の貧乏貴族でしかありませんでした。

フランス政府はコルシカ島の人々に対して友好的な政策をとっていましたので、シャルルは島の総督を通じて奨学金を求めるとフランス本国にまだ9歳だったナポレオンを留学させました。普通の学校に4ヶ月通った後にブりエンヌ軍学校に進学したナポレオンでしたが、コルシカ島ではイタリア語を話し、コルシカ風の生活をし、フランスの文化とは無縁で名前もイタリア風だった(ナポレオンは後にフランス風に改められた名前。当時はイタリア式にナポリオーネ・ブアナパルテと名乗っていた)ナポレオンは、同級生のからかいの対象になっていました。これらのことはナポレオンに望郷の念を強くし、自分をコルシカ人として考え、いつの日かコルシカをフランスの手から解放するという念を強く抱かせていました。

軍学校から士官学校を経て、1785年に砲兵少尉として任官します。任官してからもコルシカへの強い思いは続いており、たびたび長期休暇を取ってはコルシカ島に戻っています。長期休暇と言ってもその期間は半端ではなく少尉になってから7年半の間に勤務についていたのはせいぜい3年と数ヶ月ほどということなので、当時のフランス軍はそんなに暇だったのかと勘繰りたくもなります。

その間にナポレオンは大尉に上っておりその才能の片りんを見せたということでしょうが、決してフランス軍が暇だったはずもなく1789年にはフランス革命が勃発。1792年には対オーストリアを始めヨーロッパ各国との戦争が始まっています。革命思想(日本で言うところの啓蒙思想)の信奉者だったナポレオンは当然のように革命側につきました。しかし、その胸の中には故郷コルシカが革命によってどうなるか、ということの他の関心事はありませんでした。しかし、イギリスにつくことを選択したコルシカの人々にとって、フランスにつくように呼びかけたナポレオンの存在は、フランスに取り込まれた裏切り者と写り、ナポレオンは命すら狙われ、ナポレオンもボナパルト家の一家もまとめてコルシカを追い出されました。

やがて、ルイ16世とマリー・アントワネットの国王夫妻を処刑したフランス革命はジャコバン派による専横が始まり、フランス内外に血を撒き散らします。イタリア遠征(1796年)、<エジプト遠征(1798年〜1799年)で大きな戦果をあげたナポレオンはエジプト遠征の最後になるアブキール湾の戦いでフランス艦隊がイギリス艦隊に壊滅させられ戦況が悪化したことや、国内の政局が大混乱したことで急遽フランスに帰国し、クーデターにより統領政府を樹立(1799年)しフランスの実権を握りました。

1804年に皇帝となったナポレオンは、1805年にイギリス艦隊にトラファルガーの海戦での敗北により、イギリス制圧を後に回しほとんど全てのヨーロッパを敵に回しながらもイギリスを除き全ヨーロッパを制圧しました。ナポレオン戦争は全ヨーロッパにフランス革命の思想を伝播させる役割を果たしました。ヘーゲルは「世界理性が白馬に乗ってやってくるのを見た」と称賛しました(のちにヘーゲルはフランス革命を批判する側に回ります)。しかし、王制を否定しながらスペイン王を追放したのち自分の兄をスペイン王に据えるなど、圧政者としての顔を見せ始めたナポレオンに対して、自由に目覚めた民族意識はフランス軍に対して頑強な抵抗を始めました。

ナポレオンはイギリスを孤立させるためにヨーロッパの諸国にイギリスとの貿易を禁じるように命令を出しますが、ロシアがそれを破りイギリスとの貿易を再開しました。ナポレオンはこれを制圧するために60万もの兵を率いてロシア遠征(1812年)を行いますが、直接決戦を避け、モスクワを無人にして火を放ち冬将軍の到来とともにフランス軍を弱体化させるという計略の前にフランス軍は壊滅的な大損害を受けて帰国します。これが契機となりナポレオンは弱体化し、ライプツィヒの戦い(1813年)でロシア・プロイセン・オーストリアの連合軍に敗北したフランス軍は1814年4月にパリを陥落させられ、ナポレオンはタレーラン(ナポレオンの帝政時の外相)の臨時政府によって退位させられイタリア北西部のエルバ島に流されました。

ナポレオンはいつの間にかあれほど憎悪していたはずの国王の専制君主に取り込まれていたということかもしれません。ロシア遠征は本気で制圧するような進軍方法ではありませんでした。兵を率いていけばロシアの皇帝アレクサンドル1世は必ず会いに来る。そんな淡い期待を持ちながらのろのろとロシア軍に引きずられるようにモスクワまで行ってしまったというのが実際のところだったのかもしれません。事実、ロシアの領土だったポーランドを通過したとき、解放を求めるポーランドの民衆の声に耳を傾けませんでした。ポーランド人を味方に付け、ポーランドを拠点にロシアに圧力をかけることもできたのに、です。ナポレオンのような時に冷徹さを貫いた独裁者であっても、王権を神に与えられた特別なものと考え、そのようにふるまってきた王という人種は、理解のはるか外側にある存在だったのかもしれません。いつの間にか、ナポレオンが生まれながらの王に親愛の情を抱くようになっていた中、その王たちは、この高慢な成り上がり者を倒せるその時を虎視眈々と待っていたのです。

1815年3月にエルバ島を抜け出したナポレオンはルイ18世を追い落とし皇帝に復位しますが6月にワーテルローでウェリントン率いる連合軍に敗北し再び退位しました。この時のナポレオンを指して、100日天下などと呼んだりします。ナポレオンはその後南大西洋の孤島セント−ヘレナ島に流され1821年に病没します。毒殺の説も根強く、事実、後世遺髪からは砒素が検出されたとされています。