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歴史小話


歴史人名紹介:レンブラント・ファン・レイン(1606〜1669)



レンブラントは17世紀のオランダの画家・版画家です。この当時の世界情勢の中でオランダはスペインからの独立を果たし、民主的な国家体制を選択し、商業的な基盤を確立し、政治・経済・文化において円熟期を迎えます。レンブラントは、そんな時代にあらわれた天才画家でしたが、その生涯は愛する者を次々と失っていくような人生でした。また一切の妥協ができない作家性からか、性格ゆえか、1640年ごろには最高潮に達したレンブラントの名声は、夜警(右の画。画像をクリックしたらストアの大きな画像を見ることができます。)の完成と、妻サスキアの死をきっかけに失われていきます。

レンブラントの夜警(2007年)』でレンブラントの役を演じていたのはマーティン・フリーマン。レンブラントはたくさんの自画像を残していますので、(少なくとも外見を似せるのは)容易かったのではないでしょうか。

20世紀初頭のレンブラントの作品の目録には1000点を超える作品が並んでいました。しかし、レンブラント作品の真贋は常に議論され、1960年代にガースンが新たに目録を作った時、その数は約600点になっていました。現代においては研究が進み、かつてレンブラント作とされた作品の中に「工房作」という弟子たちの仕事のものが多く含まれていることがわかってきています。

レンブラントは1606年に、アムステルダム郊外の町ライデンに8男として生まれました。父は製粉業む裕福な家でした。1613年にラテン語学校に入学し、1620年にライデン大学に入学します。レンブラントも、兄たちとともに、幼いころから働いていましたのでどうして14歳で大学に入学できたのかは、末息子だから両親に特別可愛がられたのか、他の兄にはない才能を見せたからなのかは分かっていません。しかし、その大学では好きな美術の勉強ができなかったため、数か月で退学して、ライデン在住の画家のもとで美術の基礎を学び始めました。その後、その才能を認められるようになったレンブラントを、父親はアムステルダムの有名な画家のもとに弟子入りさせます。その期間は、わずか6カ月ほどでしたが、大変に貴重な経験を得て、自信をつけたレンブラントはライデンに凱旋します。

その頃、若い画家のリーフェンスと知り合います。レンブラントの1歳年下のこの画家は、12歳で画家として独立した神童であり、レンブラント初期の良きライバルでした。また、ライデンでオラニエ公の秘書官にその才能を認められ、レンブラントの絵画が世間で認められチャンスを得ることもできました。秘書官は、イラリアで絵画を学ぶことを進めますが、レンブラントも、リーフェンスもその申し出を断ります。この当時、ローマ美術を目標に多くの作家がイタリアへ向かっていましたが、イタリア美術の傑作の多くがオランダへとはいってきており、レンブラントはイタリアへ行く必要などないと考えていました。ライデンで成功を収めたレンブラントは1630年の父の死きっかけに、アムステルダムに移り住むことを決めました。

1632年の『トゥルプ博士の解剖学』によって成功と名声を得たレンブラントは、1634年にサスキアという20歳の女性と結婚します。父はレーワルデン市の市長を務めた人物でしたがサスキアが12歳の時に他界しており、4万グルデンの遺産を受け取っていました。そうして、富と裕福な親戚と顧客を手に入れたレンブラントは、次々に作品を世に送り出し、レンブラントの名声はうなぎ登りに上がっていきます。レンブラントの弟子になりたいという若い画家が殺到し、広い倉庫を改造してアトリエとしました。しかし、その成功の裏では、常に死の影が付きまとっていました。サスキアとの間には4人の子供が生まれましたが、そのうち成長したのは二男のティトゥスのみでした。サスキア自身も1642年にレンブラントが『夜警』を描きあげた直後に30歳で他界します。

その後の人生は、レンブラントにとって転落していく時期となってしまいました。世間一般の通説では、夜警ののちその名声は地に落ち最貧困の果てに孤独のうちに生涯を終えたような印象を受けますが、決してそこまでひどいものではなく、相応の国際的な名声も、信頼も保持していたとされます。しかし、レンブラントがらみの醜聞が数多く残っているのも事実です。ティトゥスの世話のために雇ったヘールトヘとの婚約不履行の裁判(1649年)や、多額の負債による経済的困窮によりレンブラントが収集した美術品や、自身の名作は競売にかけられました。レンブラントはそれを避けるために、財産の所有権をティトゥスに移そうとしますが裁判所はこれを拒否しました。

そんな1650年代から60年代のレンブラントを支えたのが、家政婦として雇ったヘンドリッキエでした。派手好きなサスキアや、欲深いヘールトヘと違い、奥ゆかしかったヘンドリッキエをレンブラントは好みますが、サスキアの遺言のため、彼女とは正式に結婚できず愛人の関係となりました。正式に結婚をした時期もあったとされますが、資料不足のためよくわかってはいません。そのため、ヘンドリッキエは宗教裁判所に呼び出され、その関係を問いただされるという屈辱を受けることになりますが、ヘンドリッキエはその後もレンブラントのもとにとどまります。

はたして、レンブラントの失敗の理由は何であったのか。夜警では、正面に立つ二人の人物以外の登場人物は完全に脇役に徹することになります。さらに何の関係もない一人の少女が目を引きます。レンブラントの作品が美術の愛好家を唸らせるものだったとしても、世間にいかに評価されたとしても、登場人物一人一人が同じ額を支払って肖像画を描かせた注文主から不興を買ったのは間違いありません。絵の水準にこだわり続けるあまり、注文主の希望を無視するレンブラントのスタイルは、世間がいかにレンブラントを称賛しようとも、注文主からは受け入れられませんでした。

1663年に、38歳の若さでヘンドリッキエが他界します。サスキアが眠る西教会(最初はアウデ教会に埋葬されていましたが、サスキアの墓まで売らなければならないほど困窮していました)にヘンドリッキエも埋葬されました。さらに1668年に最愛の息子ティトゥスが結婚してわずか半年で命を落とします。そして、サスキアとヘンドリッキエとおなじ西教会に埋葬されました。レンブラントの晩年は、孤独の中、ティトゥスの死後1年ほどして63歳でその生涯を終えました。