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歴史小話


歴史人名紹介:フランシスコ・デ・ゴヤ(1746〜1828)



フランシスコ・デ・ゴヤは18世紀から19世紀にかけてのスペインの画家で、世紀をまたいだ歴史の一大転換期のスペイン美術界を代表する最大の巨匠の一人です。宮廷画家としての華やかなキャリアを持ちながら、1792年ごろには聴力を失い、その後のナポレオン戦争の経験などにより、ゴヤの描く主題は暗さを増していきます。

ゴヤが登場する作品では今のところ、「宮廷画家ゴヤは見た(2006年)」と「裸のマハ(1999年)」を紹介しています。「宮廷画家ゴヤは見た」ではステラン・スカルスガルドが演じています。宮廷画家として、あるいは戦争という混迷の時代を生き抜いてきた人ですので、処世術にも長けていた人であり、事実幾度も教会に睨まれるような風刺画などを描いていますが、王室や権力者の助力を借りてその危機を脱しています。この作品の中では、悪役のロレンソ神父に「金のためなら何でも描く」となじられる場面が出てきます。事実、戦争を憎みながらも侵略してきたフランスの軍人の絵を次々と描かなければなりませんでした。「裸のマハ(1999年)」ではホルヘ・ペルゴリアが演じていました。ナポレオン戦争よりも前の時代が舞台です。舞台となったころはすでに聴力に障害が出ていたはずですがそんな感じには見えません。

ゴヤは1746年、スペイン北東部のサラゴーサ近郊のフエンデトードスの村に生まれました。14歳の時にサラゴーサの画家ホセ・ルマンのもとに弟子入りします。この頃に、兄弟子のフランシスコ・バイェウ(1734〜1795)と出会うことになります。バイェウは1767年に宮廷画家になった人物でゴヤは27歳の時に彼の妹のホセーファと結婚しました(その後離婚)。

1775年頃からマドリードで本格的な活動を始めたゴヤは、王室のタペストリ工場の下絵描きの職につきカルトン(原寸大下絵)を多数制作し、頭角を現していきました。1786年に国王カルロス3世づきの画家になり、1989年には国王カルロス4世(前年に即位)によって宮廷画家に任命されました。1799年には首席宮廷画家として画家としての地位を確固たるものにしたゴヤでしたが、その間に聴力を失うなどの不幸も味わいました。しかし、創作に対するエネルギーは消えることはなく、ゴヤの代表作である『カルロス4世の家族』『裸のマハ』などは聴力を失った後に描かれたものでした。

ゴヤの画家としての本質を決定づけたのとされるのが、聴力を失ったこととナポレオンによるスペイン侵攻でした。1807年にスペイン国王は追い落とされナポレオンの兄ジョゼフがホセ1世としてスペイン王位に即位します。自由を求める革命による戦禍という現実はゴヤを大きく失望させました。フランス軍によるスペイン支配時代に、戦争の壊滅的な力を暗示した『巨人』やフランス軍によるスペイン民衆の処刑を描いた『1808年5月3日』などが製作されました。1810年には版画集『戦争の惨禍』なども製作され、戦争や侵略の憎しみを描きました。

その後、フランスは対イギリス戦争でスペインから撤退を余儀なくされ、王位に就いたフェルディナンド7世は絶対君主に戻ることを宣言しました。自由主義者への弾圧が始まり、多くの自由主義者が亡命を余儀なくされました。ゴヤ自身にも、1815年に『裸のマヤ』が卑猥な絵であるとして、異端審問に召喚されました。『裸のマハ』はかつての宰相として権力を握った宰相のゴドイの依頼によって描かれたものだと言われます。そのモデルとなったのはゴドイの愛人のペピータだったともされます。しかし、当時のカルロス4世は裸体画を大変に嫌っていました。どのくらい嫌いであったと言えば、王室所蔵のルーベンスやティッツアーノ、ベラスケスらの名画を焼き払おうとしたほどでした。さすがに、周囲の説得によりそれは断念したものの、裸体画を描いたことがバレれば、ゴヤもただでは済みません。ゴドイが権力の中枢にいる間はゴヤは安泰でしたが、政敵だったフェルディナンド7世の即位によりゴドイは牢に入れられます。その後のフランスによる侵攻などの混乱もあり、ゴドイはナポリへと逃れ、『裸のマハ』も衆目に触れることになります。フェルディナンド7世はゴドイに与した人間の弾圧を始め、ゴヤも異端審問所へと召喚されることになったのでした。幸い、この頃の異端審問所にかつての力は失われており、ゴヤを追及したところで何の益もないと判断されたのか、それ以上の追及は行われませんでした。

しかし、身の危険がかなり身近に迫ってきたことを感じたゴヤは、1824年、78歳の時にマドリードを離れフランスのボルドーに移住しました。それからしばらくして1828年、82歳で永眠。ゴヤは、古典的な形式美や均整美を追求するのではなく、作家の個性や感情を重視するロマン主義の先駆けとなった作家でした。現在は、マドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂に安置されています。その遺体には頭部がなく、一体誰が持ち去ったのか、未だ不明のままなのだとされます。