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歴史映画紹介


8.日本史を舞台にした歴史映画



このサイトは西洋史を中心としていますので、日本史はあまり多く用意していません。ただ、このサイトもまだまだ作り始めですので今後は増やしていけるかと思っています。

日本列島は約1万2千年前ごろ氷河期の終わりによる海面の上昇により、大陸から離れたと考えられています。紀元前8世紀ごろから3世紀ごろまでを弥生時代と呼び、それ以前の新石器時代を縄文時代と呼びます。中国の史書に『魏志倭人伝』に倭国として日本の記述が登場するのが弥生時代であり、大型の集落を国と称し、中国とも交易をおこなう国も存在していたともいわれます。倭国連合とも呼ぶべき同盟関係が存在したとも伝えられ、中でも女王・卑弥呼によって治められた邪馬台国は後漢時代、魏に使者を送り親魏倭王の称号を与えられたと伝えられます。日本古代史最大の謎ともされる邪馬台国の正確な位置や、後の大和王朝との関係については分かっていません。邪馬台国をヤマタイと呼んだのは江戸後期の国学者、本居宣長だとされます。国学者として、「日本の天皇が中国の皇帝に献貢するはずがない」という立場から大和王朝との同一性を否定してのものでした。

350年ごろから、大和朝廷による日本統一の動きが始まります。7世紀ごろまでを古墳時代と呼び、大規模な前方後円墳が発見されており、中央集権化が進んでいくのが分かります。当時の百済や中国王朝との交流も盛んに行われ、6世紀ごろには仏教が伝来します。そこで、蘇我氏や厩戸皇子(聖徳太子)らの仏教推進派と物部氏らの排仏派とで激しい対立が起こり、両者は戦闘となり物部氏は敗れ没落しました。蘇我氏や厩戸皇子は遣隋使を送り、冠位十二階を制定し、十七条の憲法の制定を行うなど、中央集権に向けた制度を着実に作り上げていきます。厩戸皇子の死後に起こった大化の改新も中央集権を進める過程で起きた出来事でした。後の天皇も、権力の集中を徹底し、7世紀後半の天武天皇は天皇の神格化を進め、律令制により天皇支配を具現化し、8世紀初頭の大宝律令の制定につながっていきます。日本の国号も、このころ定められたものだとされます。

8世紀から12世紀の終わりごろまでを平安時代と呼びます。桓武天皇が築いた平安京に都がありました。律令国家体制に限界が見え始め、11世紀ごろから平安京は王朝として機能し、統治権限を委譲された受領と国衙(律令制の中で国司が地方行政を行うための役所がおかれていた区画)による地方分権体制が推進されました。国の護りのために国衙軍政と呼ばれる軍事システムができ、彼らはやがて武士階級となっていきました。長らく貴族階級から差別的な扱いを受けていた武士階級でしたが、12世紀末ごろまでに大きな力をつけ、保元の乱・平治の乱を経て、太政大臣まで登りつめた平清盛の時代に平氏が隆盛を極めます。しかし、その方法は、かつて11世紀に栄華を極めた藤原氏がそうしたような、天皇や皇族に娘を嫁がせ親族となることで、高い官位を得て政を意のままに操ろうというものでした。

かつての政敵で平氏によって関東に追い落とされた源氏は、やがて兵を起こし平氏を壇ノ浦で滅亡させます。征夷大将軍に任ぜられた源頼朝は鎌倉に幕府を開き、中央の公家政権(朝廷)に並立する政権として政務を開始します。13世紀前半の承久の乱で鎌倉討伐に動いた後鳥羽上皇の兵を破ると、幕府はより優位に政治を進めるようになります。それから、約650年の間、時代は変遷をたどりつつも、武士の時代が続きました。しかし、朝廷の権威や力は形骸化したとはいえ、形の上では幕府は朝廷から委任されて統治をおこなっており、時代の狭間では、天皇がキーマンとして力を発揮しました。14世紀に鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は、その立役者となった足利尊氏と対立し、退位させられ、吉野で南朝を開き、新たな天皇を立てて北朝を開きその後ろ盾となった室町幕府と激しく対立しました。

歴史映画の中で、最も人気のある人物は、15〜16世紀の戦国時代の中で、天下布武を唱え、武力による統一を推し進めた織田信長でしょう。高い見識と合理性、優れた先見性を持っており、反面、敵対する者には容赦なくあたり石山本願寺攻めでは2万もの僧侶・農民を皆殺しにしたという冷酷さは、日本史上でも特異な人物といえるのかもしれません。もっとも、後世に創作された逸話も多く、敵方に対して行った残酷行為は他の戦国大名も普通に行っていたことではありましたが。ただ、織田信長が力で天皇を上回る権威を得て、自らを神格化しようとしたのは事実だったようです。西洋の絶対君主にも似た発想はこれまでの戦国大名にはないものでした。これまでにない雄大な天守閣を持っていたとされる安土城は、1580年の本能寺の変で信長が死んだ際、謎の出火によって焼失しました。

その後、豊臣秀吉が関白となり天下人となりましたが、その死後徳川家康が1600年の関ヶ原の合戦で天下の趨勢を決め、1603年に征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開くと1614年〜1615年の大坂の陣で豊臣家を完全に滅亡させました。徳川政権下では幕藩体制の中、徳川家も圧倒的な力を持つ藩でしかなく、幕府の要職につける親藩・譜代大名の石高は小さく、石高の大きい外様大名は幕府の要職から退けてそのバランスを取っていました。家康には徳川家の安泰はあっても、日本国家全体からみたビジョンは持っていなかったように思えます。西洋で近代化の要となったのは官僚制と常備軍だと言われますが、旗本八万騎は日本の中央総軍と呼べる代物ではありませんでした。また、対外政策では秀吉のころからキリスト教は禁止の方向に動いていましたが、三代将軍家光のころに、オランダを除いた外国船は日本に来る事を禁止され、宗教的野心がないとみられていたオランダも長崎の出島という限られた場所のみで交易が許されました。いわゆる鎖国政策が始まりました。

最も、歴史ものの舞台となっている時代は幕末期でしょう(多分)。1853年にアメリカ大統領の国書を携えて訪れたペリー提督の4隻の軍艦(蒸気船2隻、帆船2隻)の前に日本は大混乱に陥り、開国派と外国人は排斥するべきだという攘夷派が激しく対立し、日本の主権を巡り勤王派、佐幕派に別れ激しく争います。結果、徳川家は没落し、幕府再興を目指して転戦を続けた旧幕臣や佐幕派の諸藩は、新政府軍によって一掃されました。

明治時代に入り、脱亜入欧・富国強兵を目指し、西洋化を推し進める政府は、西洋の帝国主義を真似、海外に侵略を始めます。日清・日露戦争、第一次世界大戦などを経て、朝鮮半島や中国、東南アジアへの侵略を進める日本は、国際連盟の常任理事国入りを果たしますが、満州事変などを経て中国での権益がぶつかるようになると欧米諸国と敵対するようになります。日本は国際連盟を脱退、ドイツ・イタリアと組み、アメリカ、イギリスなどの連合国と戦いますが敗戦。7年の占領の後、サンフランシスコ平和条約の締結を持って国際社会への復帰を果たします。

戦後の日本は、奇跡と呼ばれる復興を果たし、55年体制と呼ばれる長期にわたる自民党政権の中、国民総生産世界第二位にまで躍進を果たします。平和憲法と呼ばれる軍備の放棄・交戦権の否定を明記した日本国憲法9条を有しているのが日本の特徴ではありますが、東西冷戦の中、アメリカの強い要請もあり朝鮮戦争中に警察予備隊、後に自衛隊として再軍備の道を歩みます。冷戦下、日本もまた無関係でいることはできず、日米安保条約を締結します。80年代の後半、後にバブル景気といわれる空前の好景気に沸きますが、90年代初頭に失速。その後遺症からなかなか立ち直ることができず、「失われた10年」などといわれることになります。小泉内閣のもとでの構造改革時に、いざなみ越えといわれる好景気といわれる時代を迎えましたが、格差社会を迎え、社会福祉は縮小傾向となり、貧困ビジネスといわれるようなビジネスも横行するようになります。インターネットの普及は社会のグローバル化・多様化にこれまで以上に拍車をかけますが、反面、高度経済成長期や昭和の時代を懐かしむ回顧主義とも思える現象・ヒット商品も数多く生まれています。2009年9月の衆議院総選挙によって、衆議院の野党第一党だった民主党が大躍進し、過半数を取り、戦後初めて選挙による政権交代が起こったのは記憶に新しいところです(2011年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙で自民党が勝利し、政権は3年ぶりに自民党の手に戻りました。)。



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