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歴史小話


9日間の女王


6世紀のイングランド。1547年にヘンリー8世が逝去すると、わずか9歳のエドワード王子がエドワード6世として戴冠します。ヘンリー8世は、その遺言でメアリー王女、エリザベス王女を、エドワード王子に次ぐ王位継承権者としましたが、庶子としての身分のまま、嫡子とはしませんでした。さらに、もしも3人に後継者が恵まれなかった場合にはヘンリー8世の妹メアリーの子孫に王位を託すように遺言します。

幼年であったエドワード6世に国政の舵取りがとれるはずもなく、摂政となったサマセット公爵、エドワード・シーモア(ヘンリー8世の3番目の妻、ジェーン・シーモアの兄)が政権を担います。エドワード・シーモアは人望の厚い政治家でしたが、急進的なプロテスタントで、教会からは聖人の像や十字架が外され、讃美歌は英語で歌うように命じ、カタンべり大主教の名において、祈祷書も英語の物を使用するようにと全国の教会に命令を出しました。その命令に従わないものは投獄されました。

この教会改革に対する不満がデヴォンジャー、コーンウォールでの反乱に結び付きました。さらにこのことが、ノーフォークの農民の貴族への不満に火をつけ一揆になりました。エドワード・シーモアは、農民を懐柔しようと手を打ちますが、そのことが今度は貴族に大きな不満を抱かせました。

政治的に窮地に追い込まれたエドワード・シーモアは政敵であったウォリック伯ジョン・ダドリーによって逮捕し、処刑されました。ウォリック伯は摂政の椅子を手に入れると、自らにふさわしい家格を求め、ノーサンバランド公爵の爵位を手にいれ、イングランドの最高権力者の地位を手に入れます。ノーサンバランド公爵も急進的なプロテスタントでしたので、教会改革は進められました。カトリックだったメアリー王女もミサには出席しないように命じられました。

しかし、1552年の終わりごろに、エドワード6世が風邪をこじらせ、重体となりました。このまま、エドワード6世が崩御すると、その次に王位を継ぐのはカトリックのメアリー王女です。メアリー王女はこれまでのプロテスタント路線を一変させ、カトリック信仰への回帰に向かうであろうことは容易に想像できます、そうなれば、ノーサンバランド公は今の地位どころか命さえ危うくなります。そこで、ヘンリー8世の妹のメアリーの孫娘にあたるジェーン・グレイを王位につけて実権を維持しようと考えました。ジェーンは、ノーサンバランド公の末息子のギルフォードの妻になっていました。

1553年7月6日。16歳にもならない身でエドワード6世が崩御すると、ノーサンバランド公はジェーン・グレイを女王として擁立します。ジェーンは、この時わずか16歳。イングランド史上初めての女王でした。

しかし、正当な王位継承者であるメアリー王女が黙っているはずもありません。味方となる有力貴族は続々と王女の旗の下に集まり軍を結成すると、7月20日、ノーサンバランド公爵の軍を徹底的に打ちのめし、ロンドンに入ります。

8月22日に、有罪とされたノーサンバランド公は処刑されます。3人の息子は死刑の宣告がなされロンドン塔へ送られましたが、処刑はされませんでした。この中の1人が、後にエリザベス1世の寵臣となるレスター伯ロバート・ダドリーです。ジェーン・グレイとギルフォードは投獄されましたが、メアリーは傀儡にすぎなかった2人を処刑するつもりはありませんでした。しかし、ジェーンの父サッフォーク公ヘンリー・グレイがふたたび反乱軍を結成したため、2人は断頭台へと送られました。

こうして、王位に就いたメアリーはメアリー1世として即位します。政敵をたたきつぶして王冠を手に入れたことが彼女の自信につながったのか、この時世界一の権力者であった神聖ローマ帝国皇帝カール5世の、カトリックへの移行は急ぎすぎないように、という助言を無視して強引にイングランドをカトリック国に引き戻そうとしました。それに反対する者は容赦なく投獄され、処刑されました。彼女の統治はわずか5年ですが、メアリーの名は、ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリ)として残っています。カクテルにも同じ名の物がありますが、メアリー1世がモデルになっています。ジェーン・グレイの悲劇は、その始まりでした。