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歴史小話


対馬事件における2人の天才の対応



1853年にペリーが来航する以前から日本の沿岸にはたびたび外国船が訪れ、幕府はそのたびに問題の先延ばしをしていました。しかし、幕府は手をこまねいていたわけではなく1845年に海防掛(のちの外国奉行)を設置するなどして対応に当たっていました。

1861年の時代は桜田門外の変によって井伊直弼が暗殺され幕府の威信は揺らぎました。そんな中、倒れかけた幕府を立て直すために老中・安藤信正はひとり気を吐きます。日普修好通商条約の締結に際して外国奉行の堀が安藤の逆鱗に触れ切腹したのち、小栗はその後任として外国奉行に就任します。

そん幕府に立て続けに起こった事件が薩摩(現在の鹿児島県)藩士によるアメリカ公使の書記官ヒュースケンの殺害事件と対馬占拠事件でした。ヒュースケン殺害事件はアメリカのみならず各国から非難が巻き起こり各国の公使館が江戸から引き揚げました。幕府はこの件を解決するために銀貨1万ドルを遺族に支払いました。薩摩藩はこの件を黙殺し、何の反省もなくのちに生麦事件を引き起こして再び幕府に尻拭いをさせたのは周知の事実です。

対馬占拠事件は1861年2月3日に、ロシアの軍艦ポサドニック号が突如対馬の西海岸に停泊し、乗務員を上陸させ対馬の領主・宗義和に面会を強要しました。対馬藩は10万石の外様大名で、とてもロシアの軍艦を追い払える能力は有していませんでした。ロシアとの領土問題は、安政元年(1854年)の日露和親条約によって決着していましたので、幕府にとっては寝耳に水でしたが、対馬はかつてはイギリスが対馬の租借権を要求し、強引に対馬の沿岸の測量を行ったこともあり、このときロシアはもしもイギリスが実力で対馬を占拠した場合、日本と協力してイギリスを撃退したいと申し出たことがありました。

幕府はあわてて外国奉行の小栗を対馬に送ります。4月23日に品川を出た小栗が5月10日に対馬に到着したとき、すでに艦長のピリレフは対馬に兵舎の建築などを始めており、対馬の地元住民との間で一触即発のムードが漂い始めていました。しかも、対馬の家老が、勝手に藩主との面会を約束していました。

小栗とピリレフとの会談は再三にわたって行われ、ピリレフは家老との約束を盾に藩主との面会を要求します。このことを急ぎ江戸に伝え老中に指示を仰ぎますが、返答はノーでした。小栗は、ピリレフの立場も考慮し、「責任は対馬藩主との面会を実現できなかった自分にあるのだから、この小栗を討つことによってあなたの責任と立場を守るがよい」と言ったとされます。さすがのピリレフもその小栗の姿勢に対して敬意を抱き、さすがに小栗を討って事を運ぶわけにはいかないと藩主との面会は断念することで対馬会談は終了しました。

5月19日に小栗が対馬をたって江戸にもどりましたがロシアの軍艦はまだ対馬に居座ったままです。帰途の途中、小栗はこの事件の解決方法と日本という国が抱える重要な問題に対して思いを巡らせていました。江戸に帰った小栗は次のような報告を幕府に提出します。ロシアの軍艦を追い払う能力が対馬にない以上、ロシア領事を通じてロシア本国に外交ルートで抗議をおこなうよりない。それでも解決しない場合、国際世論に訴えて、国際正義の立場からこれを解決してもらうよりない。そして、今後このような事態になった場合、日本が軍事力によってこれを排除できるように一刻も早く軍事力の整備を行うよりない。

そして、今後も幕府を通さず藩主と直接交渉しようとする事態が起こらないとも限らない。対馬は幕府の直轄領とすると同時に、外国に対する幕府と藩の権限を明確にしておかなければならない。しかし、対馬の直轄領化は見送られ、小栗は外国奉行の任を辞します。老中は外国奉行として函館に行きロシアとの交渉を行うように命じますが、函館奉行で小栗も信頼していた村垣淡路守の面目を潰すことになると考えた小栗は、村垣に全て任せるように幕府の要人に伝えると、自分の屋敷へとこもってしまいました。

そんなとき、安藤信正に一計を用意したのが勝麟太郎でした。安藤はその策を受け、表では函館奉行とロシア公使の交渉を続けながら、裏ではイギリス公使を呼び、対馬におけるロシアの状況を伝えました。かつて、対馬を租借しようとした経緯のあったイギリスは直ちに行動を移し、7月20日には軍艦2隻を対馬に送り込みます。そこには幕府の役人や通訳も同乗していました。イギリスはロシアに厳重に抗議し、ピリレフもまた、ここでイギリスの軍艦と事を構えるわけにはいかないとやむなく退去しました。

のちに、勝は『氷川清話』の中で「彼をもって彼を制す」と胸を張ります。しかし、イギリス公使オールコックが本国に送った報告書を勝が読んでいたなら勝も青ざめたでしょう。そこには、イギリスが機会さえあれば対馬を武力で制圧し拠点としようとしていた事実が記されていました。そして、今回の事件はその絶好の機会だったことも記されていました。同様のことも、当時の日本領事の日本滞在録にも記されています。綱渡りにも似た危ういバランスの中で、この一件がかろうじて成功したにすぎませんでした。

小栗上野介は三河以来の由緒ある名門の出で、本人も秀でた能力を持つエリートでした。勝海舟は旗本とはいえ41石の貧乏旗本にすぎませんでした。常に正攻法で行動する小栗に対して、能力を磨くだけでなく下から這い上がるための力を身につけなければならなかった勝。その性質の違いが出た事件だったといえます。そして、その性質の違いが、その後の2人の人生を変化させたとも言えます。